ノーベル平和賞って人権活動とか民主化活動に与えるべきではないと思う理由

結論から言うと、私はノーベル平和賞を人権活動や民主化活動に与えるべきではないと思っています。あくまでも平和に絞るべきだと思います。

なぜか。

人権や民主化と言ったものは近代の西洋的な価値観であり、西洋であっても歴史が浅く、まだ普遍的にその価値が認識されているとは言えないからです。

また人権や民主化を重視することが人類の平和と繁栄につながるとは言えず、歴史的に見れば比較的民主的な国家こそが無用な戦争を起こしているとさえ言えます。

NewImage.jpg帝国主義国による植民地支配やそのあとに続く第一次大戦、第二次大戦にしても、世界の中でも民主化が早かった欧米の国々が犯したものです。最近で言えばアメリカが犯したイラク戦争もそうですし、イスラエルも民主化された国のはずなのにあんなひどいことをやっています。

その一方で人権や民主化という概念すらない何千年前の古代より、平和の重要性は普遍的に認識されています。

当のAlfred Nobel氏の遺言にしても、平和については書いていますが人権・民主化には言及していません(Wikipediaのノーベル平和賞の項 日本語 英語)。

…shall have done the most or the best work for fraternity between nations, for the abolition or reduction of standing armies and for the holding and promotion of peace congresses.

国家間の友愛関係の促進、常備軍の廃止・縮小、平和のための会議・促進に最も貢献した人物

それもそのはずです。Nobelが生きていた時代(1833年-1896年)の世界はまだ人権の考え方が確立していなかったのです。スウェーデンでは既婚女性が自らの所得を使えるようになったのは1874年、女性に選挙権が与えられたのは1921年です。アメリカの黒人差別と公民権運動は言うに及ばずです。

想像ですが、人権や民主化の推進が世界の平和にプラスになるなんて、Nobel氏はこれっぽっちも思っていなかったのではないでしょうか。

結論

平和は歴史的にも地理的にも普遍性を持った、人類共通の価値観です。平和に貢献した人を表彰している限りはノーベル平和賞は世界全体のものと認識されて良いと思います。

しかし人権や民主化に対してノーベル平和賞を与えるのは、西洋の近代的な価値観の押しつけだと言われても仕方がありません。しかも人権・民主化が平和に貢献するという客観的な証拠も無さそうです。Nobel氏の意思に沿っているとも言えないと思います。

「人権・民主化が平和につながる」と言うのであれば、日本を含めた民主国家が例えば中国に対して先例を示さなければなりません。民主化していることが如何に良いことか、如何に平和に貢献しているか、如何に国民の幸せにつながるのかを示さないといけません。「人権・民主化が平和につながる」というのはまだ新しい考え方で、歴史的に証明されていません。ですから現代の民主国家こそが、自らこれを証明しないといけないのです。

しかし残念ながら、民主国家はあまり成功していると言えません。経済は破綻するし、政治は混乱するし、好戦的な国もあるし。

個人的には「個人の自由と人権」を謳歌していますので、中国人に民主主義の良さをアピールしたいのですが、なかなかエビデンスが揃わないのが苦しいところですね。

アップデート

ノーベル賞の公式サイトを見ると、こんなことが書いてあります。

It is striking that although the committee based its work right from the start in 1901 on a broad range of criteria for what is relevant to peace, the struggle for human rights was for a long time not among those criteria. The first real human rights prize went to the South African chieftain Albert Lutuli in 1960.
….
Why the struggle for human rights was not considered a criterion before 1960 is an interesting question. Nobel himself evidently did not take it into consideration when writing his will in 1895. Nor did the committee when it began its work in 1901. It included humanitarian work, as we have seen, but not efforts aimed at human rights.
….
So why did it find a place on the international political agenda after World War II? Why had the struggle for human rights not been regarded as relevant to peace before then? The main reason is sufficiently clear. It lay in the new threat posed by the twentieth century’s totalitarian regimes, and more particularly in the experience of total war with ethnic cleansing and other horrors, all within the western world.

ノーベル平和賞が人権や民主化活動を含むようになったのは、ヒットラーのせいなんですね。

中国に対して「民主化しろ」と言うからには、良いお手本を示さないとね

劉暁波氏がノーベル平和賞を受賞し、それに対する中国がいろいろと不満を形にして表していて、それをまた先進国が非難しているのは、もう皆さんよくご存知のことかと思います。

「人権を守ることが大切だよ」とか「民主化しないといけないよ」とか「中国にとってもの民主化した方が長期的には良いよ」とか「言論の自由を弾圧してはならないよ」とか、いろいろなことを先進国は言っています。

でもそういう「民主的」な先進国が、金融の暴走で大変な不景気に見舞われています。そして不景気から脱却するほぼ唯一の道としてこぞって中国の市場に着目しています。一見すると「民主的」じゃないほうが不況に強いようにも見えます。

各先進国は景気刺激策のコストがかさんだ結果、揃って財政赤字が膨らみ、大きな危機感の中で政権与党が選挙で苦戦を強いられています。そして大きな方向転換を強いられ、財政引き締め策にそろって舵を切ろうとしています。ヨーロッパにしてもアメリカにしても、そして日本にしても然りです。要するにあまり一貫性の無い不況脱出策を各国が採るはめになっています。

この状況の中、中国から見れば「中国にとってもの民主化した方が長期的には良いよ」とはとても思えませんよね。民主化されている先進国がそろいもそろってだらしないことを続けているので。

尖閣諸島に関する意見の面白い関係

2010年9月26日(日)付けの朝日新聞を読んでいたら、尖閣諸島問題関連の記事がかなり興味深かったです。特に海外識者の意見と、その眼力の確かさを証明するような「天声人語」の関連が期せずして見事にはまっていました。

まずは米戦略国際問題研究所(CSIS)上級研究員のボニー・グレイサーさんの記事。

中国指導部は権力移行の準備段階に入り、国内世論の圧力にもろくなっている。このため、領土が絡む問題で柔軟な態度を示せない。軍部の発言力もより強まっているうえ、国力も自信が出てきた。歴史的にも他国、とりわけ日本から受けた屈辱を晴らすときが来たと感じる人たちもいるだろう
(太字は僕が付けました)

そしてロシア極東研究所主任研究員のアレクサンドル・ラーリンさんの記事。

もっと早く釈放していれば、せめて面子は保つことができた。

日本の強硬な姿勢は、北方領土問題を抱えるロシアに対しても悪いイメージを与えた。ロシアは1960年代には武力衝突にまで発展した中国との領土問題を、係争地を2等分する方法で2004年に解決した。ノルウェーとの間では今年、豊富な地下資源が埋蔵されていると見られる大陸棚の強化画定問題を、やはり2等分することで解決した。

共に長年の懸案だったが、問題解決の強い願いがあったから、双方が政治的決断と譲歩ができた。今回の問題は、日本の政治家にはそうした熱意や交渉の意欲がなく、原則を押し通そうとするものだとの先入観を与えてしまった

「歴史的事実」を振りかざしても、領土問題は解決しない。今回の失敗で、日本も対話で実益を得ることの重要さを理解すると思う。
(太字は僕が付けました)

最後に「天声人語」

政治経済ばかりか、この国は司法までもが外圧で動く。
….
法治ならぬ人治の国、しかも一党独裁で思うがままだから始末が悪い。下手に出れば増長する。

多分「天声人語」のコラムが多くの日本人の気持ちを代弁していると思います。少なくともTwitterの僕のTLを見ていると、また新聞の報道を見ているとそう感じます(意外とテレビに出てくる有識者は冷静な意見が多いのがちょっと面白い)。

そして「天声人語」のコラムの気持ちがまさにアレクサンドル・ラーリンさんが言う日本人は「原則を押し通そうとする」ことを強烈に裏付けています。日本の政治家も中国の政治家同様、世論を無視することはできません。日本の世論が「原則を押し通そうとする」結果として、日本の政治家も問題解決への「熱意や交渉への意欲」が出せず、「原則を押し通す」ことしかできないのだと思います。

それと少なくともボニー・グレイサーさんは、中国が「一党独裁で思うがまま」(天声人語)だとは思っていないようです。中国も日本や米国と同様に「国内世論の圧力にもろい」く、やはりその世論の影響で日本と同様に「領土が絡む問題で柔軟な態度を示せない」とホニーさんは考えているようです。

構図としてはこうです。

アレクサンドルさん日本の「原則を押し通す」ような柔軟性のない態度では問題は解決していないとしています。ボニーさんは中国サイドの話として、中国の柔軟性のなさは世論の圧力の結果であると書いています。そして「天声人語」は日本サイドの世論にも柔軟性のかけらもないことを証明しています。

僕はアレクサンドル・ラーリンさんの意見に賛成ですね。日本人は概して実利よりも「原則を押し通す」のが好きな国民だと僕は感じてきました。日本の外交が下手な大きな要因は、実は世論に共通するこの考え方だと思います。

日本ってなんで今日の多数の問題を抱えているかを考えてみる

今流行の官僚バッシングとか政治バッシングをするのではなく、

諸行無常
盛者必衰

の観点から考えたいと思います。

つまり日本が多数の問題を抱えているのは決して官僚とか政治家が大バカな判断をしたからではなく、自然と「たけき者も遂には滅びぬ」ことになる力学が存在するという観点から見てみます。

なお、これは僕が好きなChristensen氏の考え方に通じます。Christensen氏は企業や市場においてInnovator’s Dilemmaがあって、正しい経営を続けていても「遂には滅びぬ」と解説しています。

さて本題です。今の日本が抱えている問題は日本固有の問題ではなく、自然と起こる問題なのかどうかを見て行きます。とりあえずは少子化問題と景気の問題を見ます。

少子化問題

日本が抱えている多数の問題の中でも、これが最も根源的なものだと僕は思っています。

さて現代の先進国が少子化問題を抱えやすいというのは、だいたいどこの国を見ても確かです。ヨーロッパ、そして韓国等のアジアの先進国がそうです。したがって少子化問題が起こっていること自体は「必衰」と言えると思います。なんでそうなってしまうのかは諸説あると思いますが。

出生率
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不景気

今の日本が不景気だという前に、そもそも何で日本は経済発展できたんだろうかを考えてみたいと思います。別の見方をすれば、日本が経済成長した頃の原動力は何だったんだろうかということです。

日本が経済成長できたのは勤勉だったからだとか、学力があったからだとか、技術力があったからだとか、モノ作りが得意だったからだとか、いろいろなことを言う人がいます。総合すると日本が経済成長できたのは日本国民が優秀だったからということです。でもこの考え方はただの下等なナショナリズムで、完全に間違っていると思います。

というのは、韓国にしても台湾にしてもシンガポールの成長を見ても、日本の高度経済成長期ぐらいのことはできているからです。少なくとも東アジア文化圏の国の大半は、日本国民と同じぐらいには優秀そうです。

日本が1950年代から1980年代にかけて経済成長できたのは、恐らくは韓国、台湾が経済成長できたのと同じ理由、そして今の中国が経済成長をしているとの同じ理由ではないかと思います。ひとことで言えば、安い人件費と強い上昇志向の組み合わせによって、先進国で売れる製品が安く作れたからです。1960年代までは日本製品は今の中国製品と同様、おおむね「安かろう悪かろう」だったことを忘れてはいけません。

日本が1970年頃から先進国の仲間入りをすると、だんだん今までのやり方が通用しなくなりました。それから20年間は価格勝負ではなく、とことん品質と性能を高め、差別化することによって成長を続けました。しかしChristensen氏がInnovator’s Dilemmaで解説しているように、この戦略で成功し続けられる時間は限られています。遅かれ早かれ、技術の発展により過剰品質になり、そして低価格製品に席巻されてしまいます。これが今の日本の経済問題の根源だと僕は考えています。

「おごれる人も久しからず 」そのままです。先進国の仲間入りを果たしたばかりの日本が、新興の先進国に国家のビジネスモデルを真似られ、凌駕されるのは時間の問題でした。国家として何か別のビジネスモデルを編み出せなければ。

解決の糸口

またしてもChristensen氏の話をします。彼はThe Innovator’s Dilemmaにおいて、経営判断を正しく行ったとしても、会社はいずれ衰退すると説いています。その運命から脱却する方法についてはThe Innovator’s Solutionで議論しています。もちろん企業の話をしていますが、国家の運営にも通じると思います。

そしてChristensen氏が言うのは、とにかく古いものや古いシステムにとらわれず、新しいものを生み出せるようにしなさいということです。

新しいものは古いシステムとうまく波長が合わないものです。生まれたてほやほやの新しいシステムは、既存のシステムよりどうしても見劣りします。ですから古いシステムの影響があると、新しいものは役立たずと断じられ、芽が摘まれてしまいます。新しいものは独立させなさいというのは、そういう意味です。新しいシステムは今は頼りなく見えるかもしれませんが、古いシステムはいずれは必ず取って代わられます。通常の経営判断とは別に、信念に基づいて新しいものをインキュベートしないといけないのです。

日本は平家物語を生んだ国ですから、諸行無常を理解し、盛者必衰を理解し、既存のものが今はどんなに優れていても、信念を持って新しいものに投資することができても良さそうな気がします。

でもできないんですよね。いつまでも古いものにしがみついてしまっています。

新しい世代への投資を積極的に行わない。新しい産業に投資を行わない。

代わりいつまでも古い産業(建設だけでなく、自動車や家電を含む)に国費を投じ、その分、医療や福祉や教育は後回し。

ちょっと悲しい。