技術的なことで戦略を決定してはいけないという話

Horace Dediu氏がまたイノベーションと戦略について興味深い議論をしています。

“What Google can learn from John Sculley: How technology companies fail by placing their strategy burden on technology decisions”

私が見る限り、論点は以下の通り;

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  1. Adobe FlashはH.264などのビデオコーデェックに比べて垂直統合されているため、コンポーネント技術を最適化しなければならないスマートフォンでは使い難くなっています。またFlashはそもそもがビデオ再生だけを考えると機能があり過ぎて、ギリギリでやっていかなければならない今のモバイルには向きません。
  2. Apple社はJohn Sculley氏がCEOだったとき、技術の優劣に基づいて、Intel社のCISC型PentiumよりもMotorola社のRISC型のPowerPCを採用しました。しかしその判断は誤りでした。そもそもCISC型とRISC型のどっちが優れているかを判断の根拠のするのが間違いでした。そうではなく、どの会社がより長い期間、CPU技術を改良し続けるのかで判断するべきでした。
  3. GoogleはWebMというビデオコーデックを開発し、自社のChromeブラウザにどの規格を採用するかを議論する等、”H.264 vs WebM”や”HTML5 vs. Flash”に労力を費やしています。しかしそういう技術的な問題が大切なのではなく、そもそもスマートフォンでブラウザが重要であり続けるかどうかが重要です。Steve Jobs氏も繰り返していますように、iPhoneユーザはPCユーザに比べるとブラウザで検索することが少なく、長い時間をアプリの中で使う傾向が強くなっています。ですからChromeがどのような規格を採用するかはあまり重要ではないということです。

社内にどっぷり浸かると技術的判断をしがち

これは私が自分の周りを見てずっと思ってきたことです。社内にどっぷり浸かって、技術についての理解が深まれば深まるほど、技術を中心に戦略的な判断をしたり、マーケティングのポジションを考えたりするようになってしまうことがほとんどです。特許の話が絡んでくるとなおさらです。

製薬企業でゲノム研究していた頃は、細胞の分子メカニズムや薬の作用メカニズムだとかにばかり目が行ってしまい、そもそもこの疾患を薬で直そうとするべきなのかであるとか、薬以外の他の療法との関係はどうなのかを十分に知ろうとはしませんでした。ゲノムに注目するべきなのかどうかという議論は言うに及ばずです。

またよくやってしまうのは、自社技術の強みを活かそうという考え方。これを判断の中心においたら、まず間違いなく失敗するでしょう。

マーケティングをやっていたときも常々感じていました。私がクロンテックにいた頃のDNAアレイに対する不思議な情熱はこれです。現時点での技術ではなく、必要なビジネスリソースと長期的な研究開発力の視点が欠けていたと思っています(クロンテック以外のほとんどのDNAアレイメーカーもそうでしたが)。技術に疎い経営幹部ですら、いつの間にか技術中心で戦略を判断することに慣れてしまうのです。

でもそうやっていると、次にやってくる技術のうねりが見えなくなってしまいます。次のうねりは今見ている技術ではなく、違うところから起こってきますので。

「技術(特に現時点の)を中心に戦略を判断してはいけない」

こう肝に銘じておけば、ずいぶんと幅広い視野で物事が見られるようになると思います。

参考:Steve Jobs on OpenDOC

イノベーション理論から見るIntelのビジネルモデルの問題

Microsoft Windows 8がARMをサポートするというニュースがありました。

Clayton Christensen氏のイノベーションに関する一連の理論に照らし合わせて、これが一体どういう意味を持つのかを、Horace Dediu氏が解説していました。

“Who killed the Intel microprocessor?”

以下その中の議論を元に、自分の意見をいろいろ述べたいと思います。

ARMとIntelの違いは何か

ARMはCPUのライセンスを提供し、NokiaとかAppleがBluetoothや音楽デコーディングの回路をCPUと同じ半導体上にデザインし、SOC (System on a chip)と言われるものを設計します。何を組み込むかは最終的な製品に合わせて、Appleなどが決定します。そしてSOCのデザインを元に、Samsungなどがこの半導体を製造します。

すなわちARMのライセンスは、最終製品に最適化された、統合された半導体のデザインと製造を可能にします。

それに対してIntelはデザインから製造までをすべて自社で行い、最終製品を販売します。どのような付加的な回路を組み込むかを選択することはできません。Bluetoothや音楽デコーディング用の回路を組み込むか否かはIntelが決め、変えることができません。

どうして今、Intelのビジネルモデルが失速しているのか

IntelのようにCPUに関わるすべてを自社で行うことは大きなメリットがあります。最高に高性能なCPUが作れるというのがそれです。製造工程を含め、CPUに関わるすべてのコンポーネントを最適化できます。例えばトランジスタ数が増やせるような製造工程の改善が行われれば、コア数を増やしたりキャッシュを増やしたりして性能の向上に役立てることができます。

しかしもはやCPUの性能だけが問題ではなくなっています。逆にCPUの性能はそこそこでも、デバイス全体の消費電力が低いことだとか、サイズが小さいことだとか、カスタムの回路を自由に組み合わせられるということの方が重要になってきています。

特にiPadやiPhoneに代表されるデバイスでは、サイズと電池の寿命が一番重要であり、まだまだ十分なレベルまで達していない、未解決の課題として残されています。このような状況では、それぞれのコンポーネントを互いに最適化させ、統合し、最後の一滴まで性能を搾りとることが優先されます。ARMのように、CPUを含めて統合が可能なビジネスモデルが好まれるのはこのためです。

垂直統合型のApple社が成功しているのは、自らIT市場にイノベーションをもたらしたから

Apple社の垂直統合モデルが成功するのか、Wintel連合の水平分業モデルが成功するのかという議論があります。多くの評論家は最終的には水平分業モデルが勝つという意見を持っているみたいですが、この人たちの理屈は決まってApple社の成功を説明できていません。Apple社の成功の理由を理解できずに、それでも水平分業が勝つと言い切っているのは、いつ聞いても不思議です。

Christensen氏の理論を理解するとApple社が成功理由は簡単です。

Apple社は既存の技術ではギリギリ作れるか作れないかという製品を世の中に提案し、それを消費者に新しい夢を見せ、消費者に渇望させ、垂直統合によるギリギリの最適化でそれを実現しています。常にレベルの高いものを消費者に提案することによって、垂直統合が栄えやすい土壌を作り上げています。

iPhoneは全く新しいコンセプトでした。同時にiPhoneはソフトウェアもさることながら、ハード面では電池消耗とCPU性能はギリギリのバランスでした。電池がギリギリ一日持つようにCPU性能は制限されていましたし、当初はマルチタスク等が出来なかったのは単純にこのためでしょう。

iPadは業界筋の大方の予想の半分の価格で市場に出ました。あれが10万円する製品だったらあれだけ話題にならなかったでしょう。大部分のネットブックを下回る4万円台で発売されたことは大きな意味がありました。iPadではARMデザインのA4 CPUにより性能の部分と電池の持ちはクリアできていましたが、価格がギリギリです。一年経って現れた競合ですら、価格では全く勝てていません。この価格を実現するために、不必要な部分を削る様々な最適化が行われたことでしょう。

遡ってApple IIのディスクドライブの話に戻ります。これもApple社の垂直統合が大成功した例です。このときSteve Wozniakが天才的なデザインでディスクコントローラを作り上げたおかげで、フロッピーディスクの容量を拡大しつつ、安いコストで製造することに成功しました。フロッピーディスクの容量がまだ90 kilobyteだった時代に、コントローラの改善で113 kilobyteに引き上げたのです。しかも半導体の数を数分の一に減らして、コストを下げています。

こう理解すると、Apple社の垂直統合が経ち行かなくなり、水平分業の方が勝つのはイノベーションが行われなくなったときだと言えます。コンポーネントによってもたらされる性能の向上に比べ、消費者の渇望を高めることが出来なくなったときです。こうなると垂直統合による最適化をしなくても、コンポーネントを普通に組み合わせるだけで顧客の用途を満たすだけの性能が実現できるようになります。水平分業でも十分な製品が作れるようになるのです。

Intelとしては、デバイスのイノベーションが盛んに続くだろうここ数年間は何をしても復活することは無さそうです。Intelのビジネスモデルがもたらす価値が市場に必要とされないからです。市場での影響力が低下するのは避けられそうにありません。

海外のPhDは評価が高いのか?

NewImage.jpg日本ではPhDの一般的な評価が低く、そのために就職にも有利とならず、博士の就職難問題などの原因になっているという話があります。

実際、大企業でも研究職の大半が修士卒以下だというのは先進国では珍しいのに対して、欧米ではPhDを持っていないとアカデミックでも企業でも一人前の研究職とは認められないようです。

しかし先日読んだThe Economistの記事、“The disposable academic: Why doing a PhD is often a waste of time”では、欧米でもPhDの評価が低いと論じています。平均年収の話もあり、説得力があります(例えば修士卒と博士卒では給料の差がほとんどなく、学部によっては逆転するそうです)。以下に抜粋します。

海外でもPhDは奴隷のように働かされている

ドクターコースを終え、企業に就職したドイツ人の同僚もこんなことを言っていました。安い労働力としてこき使われ、長時間労働と低賃金、そして将来への不安は同じようです。

One thing many PhD students have in common is dissatisfaction. Some describe their work as “slave labour”. Seven-day weeks, ten-hour days, low pay and uncertain prospects are widespread. You know you are a graduate student, goes one quip, when your office is better decorated than your home and you have a favourite flavour of instant noodle.

But universities have discovered that PhD students are cheap, highly motivated and disposable labour. With more PhD students they can do more research, and in some countries more teaching, with less money.

PhDコースで教える内容は就職に結びつかない

PhDコースはアカデミア職に就く人のためにデザインされていますが、アカデミア職の空きが足りないようです。また企業が求めるスキルは身に付いていないようです。

PhDが不足しているのは新興国だけのようです。

There is an oversupply of PhDs. Although a doctorate is designed as training for a job in academia, the number of PhD positions is unrelated to the number of job openings. Meanwhile, business leaders complain about shortages of high-level skills, suggesting PhDs are not teaching the right things.

America produced more than 100,000 doctoral degrees between 2005 and 2009. In the same period there were just 16,000 new professorships.

in Canada, where the output of PhD graduates has grown relatively modestly, universities conferred 4,800 doctorate degrees in 2007 but hired just 2,616 new full-time professors.

Only a few fast-developing countries, such as Brazil and China, now seem short of PhDs.

アメリカのPhDコースに新興国の学生が集まるのは低賃金だから

確かにこのような見方もありますね。

In some countries, such as Britain and America, poor pay and job prospects are reflected in the number of foreign-born PhD students. Dr Freeman estimates that in 1966 only 23% of science and engineering PhDs in America were awarded to students born outside the country. By 2006 that proportion had increased to 48%. Foreign students tend to tolerate poorer working conditions, and the supply of cheap, brilliant, foreign labour also keeps wages down.

PhDを取っても給料は高くならない

英国でのデータ;

  • 大卒 vs. 高卒 : 14%高い給料
  • 大卒 vs. 修士卒 : 23%高い給料
  • 大卒 vs. 博士卒 : 26%高い給料

つまり修士卒に比べて3%しか高い給料は得られないという話です。

しかも数学と計算機、社会科学と言語学ではこの差は消滅します。さらに工学や技術、建築と教育では逆転し、修士卒の方が高い給料が得られています。

In some subjects the premium for a PhD vanishes entirely. PhDs in maths and computing, social sciences and languages earn no more than those with master’s degrees. The premium for a PhD is actually smaller than for a master’s degree in engineering and technology, architecture and education. Only in medicine, other sciences, and business and financial studies is it high enough to be worthwhile.