日本は小さな島国ではなく巨大な人口を持った先進国

グローバル企業で仕事をしていたときも、あるいは日本の報道を見ていても、日本人は自分たちの国ことを未だに「小さな島国」と考えているところが、非常にイライラさせられたことが何回かあります。

例えばバイオのメーカーでは、新製品が出たときに「世界で2番目に売れた」ことを誇らしげに言う経営幹部が珍しくありませんでした。彼らは日本が先進国で2番目の人口を誇っていることを忘れていて(しかも3位のドイツを大差で引き離して)、しかもGDPが世界2位であることもあまり意識の中にない様子でした。

加えて言うと、そのバイオメーカーでは自衛隊に売れる可能性のある製品もあったのですが、「日本の視点は自衛隊に売り込んでいるのか?」という質問をされました。そのときも日本の国防費がアジアでは中国に次いでいて、極めて高いことも経営幹部の意識には全く無さそうでした。

今朝、日経ビジネスオンラインを見ていたら、国民一人当たりのODA援助額の表が載っていて、日本が先進国でビリッケツに近いことを知りました。

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うーん、がっかりです。

日本人は自分たちが大国であるという自覚をもっと強く持って、その責任を果たそうと考えるべきだと思います。

とんでもない減税その2(一般歳出をインフレで補正してみました)

昨日のブログのグラフを見ると、2006-7年頃に一般会計の歳出を抑制することに成功しているように見えます。小泉内閣の最後の頃です。

ただしそのときでも決して歳出のレベルが低かった訳ではなく、GDP比で16%と依然として高くなっていました。低く見えるのは1999年、2000年と比べて低いだけの話です。

それでは小泉内閣のときに起こったことは何だったのでしょうか。一般歳出をインフレ(デフレ)で補正してみました。

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上のグラフはインフレ補正を行っていない状態で、小泉内閣のとき(2001-2006年)の間に一般会計歳出が抑制されているように見えます。しかしインフレ補正を行うと下のグラフのようになり、2001-2006年の間は実質的に1999年レベルと何ら変わっていないことがわかります。つまり小泉内閣のときに歳出を減らすことは実質的に行われておらず、デフレが起こっただけだと言えます。

ただ高齢化が起こっていく中では本来は歳出は増えていきますが、教育関連や公共事業を犠牲にすることでそれを抑制したというのは昨日のブログで紹介した通りです。

今日はっきりさせたかったことは何かというと、小泉内閣のように強力なリーダーシップを持ったとしても歳出の抑制をすることは実質的に不可能で、無理に抑制をしたとしてもデフレが起こる上、日本の将来を危機にさらすだけだということです。歳出の抑制がもはや不可能なのは、主として高齢化社会のためです。したがって減税を掲げるというのは本当に無責任な議論です。

とんでもない減税(大きな歳出削減は将来の日本を犠牲にする)

The Economistのウェブサイトに、米国の減税議論がいかにとんでもなくて、健全な国家に必須な予算がいかに削られてしまっているかをを述べた“Outrageous cuts”という記事がありました。ノーベル賞経済学者で、共和党政策に批判的で知られるPaul Krugman氏のブログに呼応したものです。

そこで同じ論法を日本に当てはめてみました。

まず税金がどれぐらい無駄になっているかの判断材料として、記事に習って税収のGDP比を計算してみました。データソースは1(財務省), 2(世界経済のネタ帳), 3(財務省)

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Economistの記事では、米国の税支出/GDPが1963年も2008年も3.6%であり、長期的にはほとんど変化していないことを紹介し、政府というのはそれぐらいお金がかかるものだとしています。つまり支出を大幅に減らすことによって財政を健全化できるという議論は気違いじみた考えだと断言しています。

上のグラフで日本の場合を見ると、税支出/GDPは16%代でやはり安定しています。社会福祉が入っていることなど、比率の絶対値そのものは米国と比較できませんが、ここ25年間、日本経済が非常に元気だったころと比較しても大きな変化がないことがわかります。

しかも内訳(データソース財務省)を見ますと、大きく伸びているのは社会保障関係費と国債費だけです。教育および科学技術関連予算、公共事業関係費は大幅に落ち込んでいます。(ちなみにこの財務省のグラフは物価で補正していないため、財政支出の増加をあまりにも誇張してしまって良くないと思います。)

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Economist誌と同じ視点からこの2つのデータを議論するとこういえると思います。

  1. 日本で大きく国家予算は減らす余地はなく、国家支出を減らすことによる財政健全化は気違いじみた発想です。
  2. 高齢化により社会保障関係費が、合わせて長年の財政赤字により国債費は大きく膨らんでいます。それを補うように教育費と公共事業関係費が削減され、かろうじて国家予算の拡大が押さえられてきました。しかしそれは将来の(今の?)日本の生産性を奪う危険な予算削減です。
  3. 社会保障関係費と国債費は増加の一途をたどることはすでに分かっています。ドラッカー風に言えば、これはすでに起こってしまった未来なのです。もし国家予算を減らそうと思うと、極端に教育費と公共事業費を減らすしかありません。

今後の日本が選択するべき道はますます難しいです。政府の無駄使いをなくして、減税し、民間に活力を与えれば良いという発想が人気を集めています。合理的な判断というよりは、日本をこんなにダメにした役人や政治家に対する怒りの声に思えます。しかしデータを見る限り、これが現実的な選択肢には到底見えません。仮にその道を突き進めば、教育費や公共事業費をよりいっそう削減するしかなく、結果として将来の日本の競争力の原資を食いつぶすことになります。

それでは日本は何をしなければならないのか。私の考えを簡単に紹介します。

  • 企業や国民(民間)が蓄えている資産(日本は対外的に200兆円程度の対外純資産を持つ債権国)が日本国内に投資されるよう、国内の成長特区を設けます。日本のお金が日本に戻ってくることが何よりも大切です。これには積極的な公共投資を行います。
  • 私の考えでは、首都機能の思い切った分散によって各地方で新しい都市を造っていくことが成長特区を作ることに当たると思っています。例えば国家公務員の大半を東京ではなく、人が少ない地方に転勤させて、都市を造っていきます。来た人は家、車、大型家電を買ってくれるでしょう。そしてその都市の成長に期待して、民間が大きな投資をするようにすれば良いと思います。
  • 税金を高くします。一般会計支出の内訳を見る限り、日本の最大の問題はずっと財政赤字を続けていたために国債費が財政を圧迫していること、現在の予算規模では高齢化問題に対応できなっていることですので、これをなんとかしないと悪循環が断てません。でもその前提として政治不信をなんとかする必要があります。政治不信が誰の責任なのかは別の問題ですが。

何で一時期の遷都論が下火になって、まだ盛り返して来ないのか、未だに不思議に思っているのですが。

「ネットの匿名は信用できない」は方便だけど、それはそれでいい

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「ネットの匿名は信用できない」–ユニクロ柳井会長がFacebookを選んだ理由

ユニクロがFacebookと連動するファッションコミュニティサイト「UNIQLOOKS」を公開しましたが、Facebookと連携して理由についてユニクロ代表取締役会長の柳井正氏は以下のコメントをしたそうです。

「Facebookはアクセス数でGoogleを超えた。世界最大のコミュニティがそこにはある。どうせお店を出すなら世界最大の市場がいい」

Facebookは個人対個人で、しかも匿名でなく実名。これは責任を取れる情報をお互いに交換するということ。それが可能なのは、いまだとFacebookが一番」

「特に日本ではそうだが、インターネットの匿名制は信用できないと思う。本当に参加したとはいえない。単純に意見を言っただけで責任がないからだ。『自分はこう思う』と言ってほしいが、やっぱりそれは実名でなければいけない。Facebookは一番正確に情報を発信したり、受信したりできる媒体で、いまのところアクセス数は世界最大」

日本のインターネットは匿名主義だとか、あるいは実名主義にしていかなければならないという意見はいろいろありますが、そういうイデオロギーはとりあえず考えないことにしましょう。ここではイデオロギーは無意味ですから。

単純なことです。ウェブサイトを所有しているのは企業であり、そのウェブサイトに参加する資格があるのは誰なのか、それを決める権利は企業にあります。企業のウェブサイトに無責任なネガティブコメントが書き込まれれば、企業の収益にマイナスになります(UNIQLOOKSの場合はモデルの容姿に対するコメントにもなるので、無責任な誹謗中傷はモデルにとって特に堪え難い)。だからそういうネガティブコメントを封じつつ、ポジティブコメントが集めやすい仕組みがあれば、企業がそれを選択するのは当然のことです。

Facebookはそういう企業にとって魅力のあるユーザを多数かかえているので、企業はFacebookと連携したがるのです。

善くも悪くも、資本主義社会である以上、企業が世の中を引っ張っていく側面は強くあります。ユニクロをはじめとした各企業がFacebookのユーザ限定のいろいろな企画をすれば、Facebookの実名ユーザが増えます。それはまたその企業のプラスにもなりますので、ポジティブな循環が生まれます。

やはりFacebookの実名主義は強いです。匿名主義ではここまでビジネスを動かせません。そしてそれはインターネットがリアルな社会と結びついていく上でとても良い方向だと思います。

このブログでもFacebookは何回か取り上げていますし、バイオの買物.com公式ブログでもFacebookを論じていますが、こういうのをバイオの業界でも活用できたらと思っています。まだ乗り越えなければならないハードルがたくさんありますが。

Facebook, Twitter, Mixiのデモグラフィックを見てみる

Facebookが日本で普及し始めていることを受けて、斉藤 徹さんがブログ”In the looop”に書いた記事を先日紹介しました。

Facebookの実名主義がとても大切な理由

昨日は斉藤さんの記事に対する反論というか別の見方を「もとまか日記」が書いていました。

Facebookが楽々と世界で普及していった本当の理由

どっちもそれなりに良い指摘はあるのですが、いずれも大切なことを忘れている気がします。それはマーケティングでとても重要な顧客のセグメンテーションです。いずれも顧客のセグメンテーションをせずに、インターネットを利用している人はこうだ!とあたかも一つのセグメントかのように議論しています。

そのもっとも顕著な例が後者のブログに書かれていたこの言葉。

「旧知の友人を探しやすい」
と言っても、昔の友人を探さなければならない人が
そんなに多いとも思えないしね・・・。

日本の人口の大半は、大学時代までインターネットも携帯も使っていない

何を言いたいかというと、日本人の大半は旧知の友人のメールアドレスも知らないし携帯番号も知らないということです。私の場合だと、大学の体育会はOB会がしっかりしているので卒業後にメールアドレスを確認していましたが、それ以外の学生時代の友人でメールアドレスを知っているのは少ししかいません。

日本の人口ピラミッドを見れば一目瞭然です。

日本でインターネットが普及したのは1995年ごろからですが、そのときに大学を卒業した人はいま37歳前後です。日本人の平均年齢は45歳ですし、人口ピラミッドを見ても37歳以下の成人は全体の1/4ぐらいです。

友人同士のコミュニケーションツールとしてのインターネットおよび携帯電話の活用度合いについては、恐らく37歳前後で大きな違いがあるはずです。そして旧知の友人とインターネットでコミュニケーションできていない人は、むしろ大幅に多数を占めていると考えられます。

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DoubleClick Ad Plannerに見るデモグラフィックの違い

各ウェブサイトを利用しているユーザのデモグラフィックを見るツールとして、Google提供のDoubleClick Ad Plannerがあります。ここのデータの信憑性はハッキリ分かりませんが、他の方法では入手しがたい有益なデータが得られます。FacebookのデータMixiのデータ

例えばFacebook.comの人気上昇ぶりを見てみましょう。ここ半年間で急にアクセスが増えていることがわかります。

Facebook access trend

ではデモグラフィックとして年齢構成をfacebookとmixiとで比較しましょう。なお、このデータは日本からのアクセスのデータで、ガラパゴス携帯電話からのアクセスやアプリからのアクセスは含まれていないと考えられます。

2011 02 18 00 36 22

ハッキリとした違いがあるのは、Facebookのユーザに45歳以上が多いことでしょう。Mixiは30歳から44歳までのセグメントが多くなっています。

どうもこの45歳前後(私が言っている学生時代にインターネットがあったかどうかの境目あたり)がFacebookとMixiの人気の分かれ目のように思います。

恐らく斉藤 徹さんの意見は45歳以降の世代の考えを代表していて、「もとまか日記」さんの意見はそれより前の世代の考えを反映しているのではないでしょうか。お互いの意見が異なるように見えますが、単に違う世代、違うデモグラフィックについて語っているだけのように思えます。

それでFacebookは日本で人気が出るの?

最後に結論ですが、もし斉藤 徹さんの意見が45歳以降の動向を正確に見極めたものであるならば、日本の人口構成を考えたとき、間違いなくFacebookはMixiに迫るかもしくは追い抜く存在になるでしょう。

若い世代にとってはMixiを手放す理由がないのは「もとまか日記」さんの言う通りです。でも実名主義のFacebookは日本のSNSの空白地帯が狙えるのです。それはデモグラフィックを見て初めて分かります。

生き物の本質的難しさ

私は生物とプログラミングが同じ課題を抱えていて、お互いに似たような進化をしてきたのではないかという仮説を持っていますが、関連する記事をウェブで見つけました。

“現代的プロトタイピングのすすめ~古くて新しい可視化手法”

この記事は100%ソフトウェアについて書いてあるものですが、その中で1987年のFrederic P.Brooks, Jr.による著書「銀の弾丸はない:ソフトウェア工学の本質と課題」が紹介されています。

面白いのはその中の図表です。「ソフトウェア」を「生き物」と置き換えてもほとんどそのまま通じるように思いますが、いかがでしょうか。

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「生物の本質って何だろう」っていう疑問はよく聞く話で、例えば自己複製できることであるとか、エネルギーの流れ(代謝)であるとか言っている人がいます。それぞれに着眼点は素晴らしいと思います。でも私にとってはどの見解もあまりおもしろみを感じません。「生物」という存在と、現代人が築き上げた「技術」をつなげるような考えではないからです。

現代の高度な機械技術ことが人類の「バビルの塔」であり、人間が神に一歩ずつ近づこうとしている中間点だと私は思っています。そして神が築き上げた最高傑作こそが「生き物」。科学の究極的な目標が神の設計図を読み解き、理解し、模倣することであるとするのならば、「生命の本質」に関する議論もまた、どうやったら人工的に生命が作れるかに結びつかなければならないと思います。

この視点に立つと、人類が既に築き上げた技術力の中で、生物に最も近いものは何かを考えたくなります。

もし「生物の本質」を「複雑性」だと考えるならば、それは間違いなくプログラミングだと思います。私がここに着眼しているのはそのためです。

なお生物とプログラミングを比べてみることについて、私はこのブログでも過去に紹介していますので、ご覧下さい。(オブジェクト指向プログラミングと生物システムの類似性(作成中)オブジェクト指向プログラミングと生物学

Facebookの実名主義がとても大切な理由

斉藤 徹さんがブログ”In the looop”でFacebookの実名主義の効果を解説していました。

なぜ、Facebookだけが、キャズムを楽々と超えるのだろうか?

私はほぼ完全に同じ意見です。

私の理解するところでは、要点は以下の通りです:

  1. Facebookがこれだけ普及する理由は実名制。実名制ソーシャル・ネットワークだからこそ可能となる「人物探索機能」と「メッセージング機能」にポイントがある。
  2. Facebookでは、実名制だからこそ、旧知の友人などをすばやく探し出すことができる。これはmixiやTwitter、さらにはGoogleでも非常に難しい、つまり今までのWebサービスでは困難だった。
  3. 「メッセージング機能」は友人に限定されているのではないので、インターネット「住所録」「電話帳」のように使える。これが充実することによって知人を探しやすくなり、連絡を取れるようになる。

ただしもう少しキャズム越えの戦略について、顧客セグメントを掘り下げた議論さあっても良かったと思います。

Facebook mask

顧客セグメントから考えた解釈

このブログでも紹介されているキャズム思考は、キャズムを越えるために採るべき戦略は顧客層を限定した選択と集中です。狙うべきマーケット(顧客層)をしっかりと定め、これに“whole product”(顧客のニーズを満足させるまとまったパッケージ)を提供することです。

したがってFacebookの実名主義と関連機能が、どの顧客層のニーズを満たし、かつどのようにしてwhole productになり得ているかを見る必要があります。

ほとんど斉藤氏の意見の焼き直しですが、こうまとめられると思います。

  1. ターゲット顧客層:旧知の友人を含めた、リアルな友人とのつながりを深めたい人。年賀状しかやり取りしないぐらいの友人と、実はもっとこまめに連絡をしたい人。
  2. ターゲットじゃない顧客層(匿名性):ネット上のバーチャルな友人関係を広げたい人。ネット上で自分の意見を公開してぶちまけたい人。これらの人は匿名性が維持でき、誰でもフォローできるTwitterなどを使うのが良い。
  3. Facebookが提供するwhole product:旧知の友人を探し出す機能。つながりを意識できるようにする機能(「いいね」とか)。連絡が取れるようにする機能(メッセージ)。

ただこのターゲット顧客層をターゲットする場合、デフォルトのFacebookのアプリケーション以外はあまり重要ではない気がします。例えば写真とかTwitter連携のアプリは大切ですが、ゲームなどのアプリは関係ない気がします。

斉藤氏も述べている通り、Facebookには他にもいろいろな機能があり、例えば企業やアーティストがFacebookページが作れることも大きな特徴です。ただ、Facebookに企業ページがあり、それが見たいという理由でFacebookに参加する顧客はほぼ皆無ではないでしょうか。Facebookにそもそも参加する理由はやはりリアルな友人とつながりたいからで、これらの顧客に対してマーケティングを行いたいから企業ページがあるのです。これが順番です。

日本のインターネットは本当に匿名性が重要なの?

これもマーケティングで行われる顧客セグメントで考えることができます。今までの日本のインターネットでは匿名性が重視されていたのは、これは事実です。問題なのは、「今まで日本のソーシャルインターネット」を利用していた顧客層と「これからの日本のソーシャルインターネット」を利用する顧客が同じかどうかです。

「今まで日本のソーシャルインターネット」を引っ張ってきた人は、情報を発信するように人たちであったと思います。キャズム理論で言えば「イノベーター」や「アーリーマジョリティー」に属する人たちです。これらの人は、インターネットやそこで行われてきたやり取りに興味を持っている人たちで、「インターネット」がやりたい人たちです。これらの人がリアルな社会とインターネットを別の空間と考え、インターネット上では匿名でやりたいと思うのはごく当たり前のことです。

それに対して「これからの日本のソーシャルインターネット」を考えるとき、「インターネット」そのものには興味がない人を対象にしなければなりません。例えば2chをただの怪しい存在としか思っていない人、SNSを時間の無駄としか思っていない人、自分のことをネットで公開すると危ないと思っている人(匿名であろうが実名であろうが)。このような人が「アーリーマジョリティー」を形成しているのです。

「アーリーマジョリティー」はリアルな生活に関心があるのであって、ネット上の生活には多少は興味はあるものの、はまり込む理由がありません。そうなるとインターネットのソーシャルサービスが成功するか否かは、リアルな生活にとってどれだけ有益かということになります。そのためにはリアルな生活とつながる必要があります。これは日本でも欧米でも同じはずです。

実名主義が可能にするのは、インターネットとリアルな生活をつなげることです。日本で匿名性が大事だとされていたのは、いままでのソーシャルインターネットの利用者たちがインターネットとリアルな生活を分けていたからでしょう。インターネットがリアルな生活に役立つと考えている人が少なかったからでしょう。単純にそれだけだと思います。

匿名性を重視していた日本のソーシャルインターネット利用者と、これから利用するであろう「アーリーマジョリティー」は同じではありません。インターネットに対する考え方および使い方、リアルな生活との関係、そして年齢にしても、相当に違う人たちの集団です。これを無視して「日本人は匿名性を重視する」というのはナンセンスです。

Facebookが日本で普及していけば、旧知の友人とつながるという大きな価値がインターネットでますます実現していきます。そうしてインターネットがリアルな生活に役立っていきます。こうなれば、日本人であっても匿名性をことさらに重視することはなくなるでしょう。

それだけです。

金融業界の適正なサイズを人体の血液量と比較してみる

今では金融業界は学生にとってはかなり魅了のある業界で、給料もいいし、エキサイティングだと考えられています。

でも私が小学生だった1970年代は、金融業界と言えば銀行であって、お堅い仕事で給料はいいけど、エキサイティングなイメージはありませんでした。他人のお金を使ってリスクの高い投資をしたり、そういうことはしていませんでしたし、M&Aなども多くありませんでした。

このように金融業界が変質してしまったことを危惧し、これこそが金融危機の遠因であるとPaul Krugmanなどは語っています。

例えば米国において、60年前の金融業界の大きさはGDP比で2.3%だったの対して、2005年には7.7%と3倍近くふくれあがっています。給料も高く、エキサイティングなので、優秀な学生がこぞって金融業界に就職しています。(The Equilibrium Size of the Financial Sector)

Financial sector growth

日本では金融業界も同じように膨らんでいるようです。日本の金融業界は2010年時点で 41兆円の規模ですが、日本のGDPは480兆円弱なので、金融業界の規模はGDP比で8.5%です。

でもちょっと待って考えてみましょう。そもそも金融業はどうして存在するのでしょうか。製造業やサービス業は具体的な形で我々の生活を豊かにしてくれますが、金融業がどのように我々の生活に貢献しているのかはあまり明確ではありません。

例えば全国銀行協会のホームページではこう書いてあります;

お金は経済社会の血液

お金はよく私たちの社会生活における血液に例えられます。ある時は企業から個人へ、ある時は個人から企業へ、またある時は個人・企業から国・地方公共団体へと、ちょうど人間の体の中を血液が循環するように流れ動いて、経済社会に活力を与えているのです。こうしたお金の流れのことをマネー・フロー(資金循環)といいます。

さて問題は、「血液」の役割を果たす金融業界が全GDPの2%であるべきなのか、それとも8%であるべきなのかです。

人間の全血量は体重の約8%だそうです。そして1/3を出血で失うと生命が危機にさらされるそうです(健康管理の栄養学)。

へぇー現代の金融業界と同じレベルかなとも思う一方で、血液は金融だけでなく運送の役割も果たしていることも考慮しなければなりません。その規模がどれぐらいかというと、物流だけでおおよそ20兆円、旅客業界は数字が見つかりませんでしたが、恐らく20兆円ぐらいではないかと想像してみます。合わせて運送で40兆円ぐらいと想像してみます。

それで金融業界と運送業界を足し合わせると81兆円となり、GDP比で16.8%。人体の全血量よりもずいぶんと多くなってしまいます。

どうも現代の国の経済構造は、人体と比べると血液的な役割が2倍ぐらいに大きくなってしまっているようです。全GDPの1/6ぐらいを血液的なものに回しているみたいです。

まぁ血液量と金融業界のサイズを比べることの意味はそんなにないかもしれませんが、そもそも適正な金融業界のサイズが経済学的に分かっていないことを考えるとやっても良い比較だとは思います。そしてその結論は、金融業界が大きすぎるといういうものです。

私は今の金融業界は白血病だと思っていますけどね。経済全体に貢献することを忘れ、自分自身の拡大のために金融業界が働いているという意味で。

日本で元気な企業とClayton Christensenの”law of conservation of attractive profits”

The Economistのウェブサイトに、日本の元気な企業とゾンビ企業の話がありました(“New against old”)。

ゾンビ企業の滑稽さも面白いのですが(日本の企業の2/3は利益がなく、したがって法人税を払っていないこと等)、私が興味を持ったのは元気な企業のタイプです。

These high achievers represent the “new Japan”, says Ms Schaede. At the top of the chart is Keyence, which makes factory-automation equipment and had average profit margins of 47% between 2000 and 2009. Fanuc, a world leader in factory robots, enjoyed 33% returns. Last month it reported a quarterly operating profit of ¥49 billion ($594m) on sales of ¥118 billion. Gree, an internet company, boasted profit margins last year of 56%.

Most of Japan’s high-performance companies make “intermediate goods”, such as electrical components, specialist chemicals and precision-machinery parts, rather than final products. Drug firms also figure high on the list. But here the common features end. The group includes the large and the small, the export-oriented and the domestically focused. It spans high- and low-tech: Axell designs microchips for pachinko (roughly, pinball) machines; Nifco makes plastic fasteners to attach car parts. And the new Japan has some old members: Ono Pharmaceutical, a drugmaker with margins of 37% between 2000 and 2009, was founded in 1717.

※ 太字は私が付けました。

まず第一に注目したいのは、輸出型の産業か国内型の産業かは問題ではないということです。日本の経済をどうやったら元気にできるかという議論の中で、国内市場の需要を喚起するべきか、それとも海外市場への輸出を重視するべきかという話題が出てきます。そしてどの立場を取るかによって、相反する政策になってしまうことが珍しくありません。例えば内需を刺激するためには労働者の所得を増大させる政策が考えられますが、一方で海外競争力の立場で考えると、労働者の所得を減らしてでもコストを下げる政策が考えられます。

でも輸出型か国内型かはあまり企業業績に関係していないのであれば、この議論は不毛ということになります。この記事はそれを示唆していると思います。

Law of conservation of attractive profits

第二に注目したいのは、元気な企業の多くが最終製品ではなく中間製品を作っているということです。これはイノベーション論で有名なClayton Christensen氏がいう”law of conservation of attractive profits”そのものではないかと思います。

Christensen氏が言うには、最終製品がコモディティー化すると、最終製品を組み立てる企業の利益は減ります。しかしそれに対して中間製品や工業機械を作っている企業の利益は増えるというのです。そうやってattractive profitsは全体としては保存されると言っています。

パソコンを例に話します。

1980年代はNECのPC-9800シリーズのように、最終製品が儲かりました。しかし1990年代に入り、DOS/VパソコンやWindows 95が日本に入ってくると様相は一変します。NECは数あるパソコンメーカーの一つに成り下がってしまい、差別化が出来なくなってしまいました。価格競争に巻き込まれ、パソコンは赤字もしくはほとんど儲からない事業になってしまいました。富士通とかCompaqなどは今までほとんど入り込めなかった日本の市場でシェアを取れるようになり、売上げは増えましたが、これらの企業にとってもパソコンが儲からないというのは同じでした。

確かにNECを含めたパソコンメーカーは儲からなくなりました。しかしその一方でWindowsを作っているMicrosoftとCPUを作っているIntelは利益を大幅に伸ばします。Attractive profitsが保存されるというのは、このように最終製品のメーカーが儲からなくなった場合には、バリューチェーンの中のどこか別の箇所をになっている企業(この場合はパーツを作っているメーカー)が儲かるようになることです。

日本メーカーお得意の「(過剰)品質」は最終製品に適応できなくなった

話を日本の経済に戻します。

日本の社会全体の大きな特徴は、世界基準で言えば過剰とも言われる高品質です。電車の正確な運行にしても、デパートでの製品の包装その他の接客にしても、そして工業製品の精度にしても、海外では見られない高品質です。当然のこととしてそれにはコストに跳ね返っています。

日本の人件費が安く、円も安かった時代は過剰品質と安さを両立させることは可能でした。日本の製品は「安くてかつ過剰品質」でしたので、バカ売れしたのは当然のことです。それが現代では人件費が欧米先進国並みになり、円も高くなってきました。アジアの途上国が工業化したこともあり、「安い」のハードルも高くなりました。「安くてかつ過剰品質」はもう実現不可能になり、「高いけれども過剰品質」な製品をどうやって売っていくべきかという大きな課題にぶつかりました。

誤解している人が多いので、繰り返します。日本の経済が失速している原因は、何か政策的なミスによって衰えてしまったのではありません。先進国の仲間入りをし、人件費と通貨が高くなり、かつ高齢化も抱えたことにより、いままでの「安くてかつ過剰品質」路線が継続できなくなってしまったからなのです。路線変更を阻む政策を継承してしまったという側面はあるかもしれません。しかしどのような路線変更が必要だったのかという問題の本質的な部分を理解している人は、果たしてどれだけいるでしょうか。

今回紹介しているエコノミストの記事では、元気な企業は最終製品を作っているメーカーではなく、工業機械等の中間製品を作っている会社だとしています。これから類推すると、日本に必要な路線変更というのはソニーやシャープ等の家電メーカー、トヨタ等の自動車メーカー、そして日本航空などを見捨て、代わりに一般消費者が聞いたことないような中間製品メーカーを育てることではないかと思われます。日本の経済政策を論じている人の中で、このレベルで考えている人はどれだけいるでしょうか。

「過剰品質」が求められている市場はどこにあるか

「過剰品質」で勝負できるのは、産業構造上Attractive profitsが集積しているところだけです。そこ以外は「過剰品質」に伴う高コストを吸収できないからです。

世界中の企業は今中国市場に注目しています。中国は市場としてはもちろん魅力的ですが、同時に工業化も著しいため、中国市場を開拓する際には中国メーカーも競争相手です。中国人の平均所得はまだ低いので、当然ながら主戦場は低価格市場、つまり最終製品がコモディティー化している市場です。

Christensen氏の理論に従うと、最終製品がコモディティー化している場合はAttractive profitsはその部品を供給しているメーカー、あるいは工業機械を作っているメーカーになります。どんなコモディティー製品でも、attractive profitsがなくなってしまっているということはなく、どこか別のところにシフトしているだけです。

最終製品がコモディティー化している場合、価格競争が激しくなります。性能を保ちつつ低価格を実現するためには、例えば生産ラインを自動化することが必要です。あるいはパーツを自前でカスタマイズせずに、汎用性の高い出来合いのパーツをなるべく共通して使用することが必要になります。こうなると工業機械にしても中間製品のパーツにしても、品質の良いものが要求されます。性能の悪い工業機械だと安定稼働してくれないために、思うように製造ラインが動いてくれなかったり、あるいは歩留まりが悪くなったりするでしょう。また品質の悪いパーツだと、様々な製品に共通して使うことができません。このように最終製品のコモディティー化は、高い品質の中間製品を必要とすることが多いのです。

そう考えると日本が得意とする「高品質」を武器に中国市場等の途上国の市場を攻略できるのは、最終製品ではなく中間製品だと言うことできます。つまりエコノミスト誌が言っていること:中間製品メーカーが元気だというのは、イノベーション理論からも裏付けられている必然的なことなのです。

いい言葉です:『イノベーションというのは「未来にある普通のものを作ること」』

上杉周作さんがTwitter上に以下の言葉を書き込んでいて、あっちこっちでretweetされていました。

Innovation s

どこに書いてあったか覚えていないのですが、Steve Jobs氏とかはあたかも未来を見て来たかのようにイノベーションを語るそうなので、なるほどねって思いました。

イノベーションとはなにか?私は主に Clayton Christensen の著書を読んだり、あるいはApple社の遍歴を見ながら、以下のことではないかと思っています。

  • イノベーションは、人々の生活を豊かにするものです。豊かにしないものはイノベーションにはなりません。また革新的でなくても、生活を大きく改善できるものであれば、それはイノベーションです。
  • 多くの人が昔から思いついていることであっても構いません。また試作機を誰かが作ったものであっても良いのです。この段階ではまだイノベーションは起こっていません。イノベーションが起こるのは、製品が市場に出て、多くの人に受け入れられたときがスタートです。(Macの原型、PARCのAltoのことです。そしてJobs氏が言っていた”Real artists ship!”の言葉のことです。)
  • イノベーションが起こるのは、多くの人がその製品を使い始めたときです。その製品が人々の生活を良い方向に変えていったときです。どんなに革新的な技術であっても、人の生活を変えなければイノベーションにはなりません。

上杉のTweetの「未来にある普通のもの」というのはそういう意味です。未来の普通の人が普通にその製品を使っている。そうでないものはイノベーションではないのです。使われている技術が新しいかどうかは、基本的には無関係です。

私が作っている「バイオの買物.com」もそういうイノベーションを目指しています。新しいかどうかが問題ではありません。大切なのは、生物学の研究者にとっては新しいサービスであること、そして便利だと思って使ってくれることです。さらに、今までは製品比較をあまりせずに試薬を選んでいたのが、バイオの買物.comがあるからこそ多くの研究者がじっくり選ぶようになってくれれば、その時点でイノベーションが始まると私は思っています。

蛇足ですが最近気になっているので、ロボットを例にとります。

  • お掃除ロボットのRoombaはイノベーションだと思います。大腸菌程度のセンサーと頭脳しかありませんが、それでも見事に床をきれいに掃除してくれます。床掃除を毎日することが苦でなくなります。
  • 逆に日本(だけ?)で開発され、マスコミに取り上げられる二足歩行ロボットはイノベーションではありません。かなり複雑で高度な技術が使われていると思いますが、これはまだ遊びの段階です。

Wikipediaの”Innovation”の項も興味深いです。

In business, innovation can be easily distinguished from invention. Invention is the conversion of cash into ideas. Innovation is the conversion of ideas into cash. This is best described by comparing Thomas Edison with Nikola Tesla. Thomas Edison was an innovator because he made money from his ideas. Nikola Tesla was an inventor. Tesla spent money to create his inventions but was unable to monetize them. Innovators produce, market and profit from their innovations. Inventors may or may not profit from their work.

残念ながら日本語Wikipediaの「イノベーション」を見ますと、

これまでイノベーションは、よく「技術革新」や「経営革新」、あるいは単に「革新」、「刷新」などと言い換えられる。これは1958年の『経済白書』において、イノベーションが技術革新と訳されたことに由来するといわれている。当時の経済発展の要因は技術そのものであったため、イノベーションは「技術革新」と訳されたのかもしれない。

日本では英語版Wikipediaに書かれていたような”Invention”と”Innovation”の区別はあまりないのかもしれません。だとするならば、これも日本の製造業の調子がいまいち上がらない理由の一つと言えるでしょう。