iBooks Textbooksがあるとき、授業は何をすればいいの?

Life on EarthiBooks Textbooksを見て、昔から疑問に思っていることを再び考えています。

「授業というのは何をするべきところなのだろうか?」

学校に行く目的は勉強ができるようになることです(他に人間として成長するというのはもちろんありますが、それは別の話)。授業というのはその一つの手段です。数ある中の一つの手段ですし、最も効果的な手段という保証もありません。極端な話、生徒が勉強できるようにさえなれば、授業をやるかどうかはどうでもいいことです。

iBooks Textbooksの見本で日本で唯一ダウンロード可能な“Life on Earth”を見ると、「これさえしっかり読めば授業はいらないよね」って思わずにはいられません。おもしろいから退屈せずに最後まで読めるし、高解像度の写真や動画、インタラクティブなウィジェットがふんだんに使われています。書いてある内容が理解できずに苦しむと言うことはあまりなさそうです。

日本に多い授業の形式、つまり黒板があって、そして40人が全員前を向いて先生が話をするという授業形態で果たして”Life on Earth”を超えた授業はできるでしょうか。”Life on Earth”以上の説明を黒板と口頭で果たしてできるでしょうか。あるいは話題の電子黒板を使ったとしても、iBooks Textbooks以上のマルチメディア体験を生徒に与えることができるでしょうか。

僕は無理だと思います。”Life on Earth”を見ると、「事実を伝える」という目的に限って言えば、授業という形式でこれを超えることはできないと思います。

それならば授業は何をやるべきなのか。黒板に板書をして、先生が口で説明して、教科書を読んでという授業の代わりに、先生たちはいったい何をすれば良いのか。

今回のiBooks Textbooksの話、僕が小学校の頃にイギリスの現地校で受けた授業、そしていままで好きだった先生の教え方を思い返しながら、僕が理想とする近未来の授業の姿を描いてみたいと思います。

  1. 黒板に書かれた板書を生徒が書き写すようなことはやめるべきです。
  2. 生徒は自分で考えてノートをとるようにさせます。何をノートに書くべきか、どういう形で整理するかは生徒に自分で考えさせます。
  3. 教科書を読み上げるというのはやりません。それぐらいなら授業の最初の15分間ぐらいみんなに教科書を各自で読ませた方が良いです。人それぞれに考えるペースがりますし、本を自分のペースで読むのと、読み上げられた音声を聞くのとでは頭に入る効率は全然違います。iBooks Textbooksみたいなインタラクティブなものは特に読み上げるだけではもったいです。
  4. 自分で主体的に勉強させます。問題集をやらせるのも良いのですが、せっかく学校にいるのであれば何か課題を与えるとか、作文をやらせるとかした方がおもしろいと思います。
  5. 自分の考えを発表する練習をさせます。どんなにすぐれた電子教科書があっても、自分の考えを発表する練習はそれだけではできません。
  6. 以下にマルチメディアでインタラクティブであっても、実際の物理的な体験は重要です。実験をするとか、外に出て観察するとか、そういうことをさせることが重要です。

iPadを活用した教科書があれば、子供たちは自分たちで積極的に勉強してくれることが増えるでしょう。難しいコンセプトでも頭に入りやすくなるでしょう。単純に教えることにもはや多くの時間を割く必要は無くなるはずです。時間をかけるにしても、子供たちは自分でできるはずです。

逆に生まれたときからiPadを使っているような子供たちにとって、黒板を使った授業は退屈で仕方がありません。当然なことです。iPad以上に刺激的でおもしろい体験をどうやったら子供たちに与えられるか、それが試されています。

もちろん優れた先生たちは、単に板書をするのではなく、あの手この手を使って子供たちに興味を持ってもらい、いろいろな方法で勉強をさせているはずです。今後はますますこのような先生の工夫が生きてきたり、実践したりする時間が増えるのではないでしょうか。それが何よりも楽しみです。

iBooks Authorをバイオのメーカーはどう活用できるか

「iBooks Authorをバイオのメーカーはどう活用できるか」というブログをバイオの買物.com公式ブログにアップいたしました。

iBooks Authorはデジタル教科書の制作で注目されていますが、いろいろなマルチメディアコンテンツの制作もできます。とても使いやすく、できあがったものは非常に魅力的です。

メーカーならば製品プロトコルだと季刊誌などに活用できると思います。是非ブログを読んでみてください。

iBooks Textbooksでイノベーションについて考える

アップデート
Daring FireballのJohn Gruber氏もこの記事と同じようなことを述べています。“On the Proprietary Nature of the iBooks Author File Format”

It’s the difference between “What’s the best we can do within the constraints of the current ePub spec?” versus “What’s the best we can do given the constraints of our engineering talent?” — the difference between going as fast as the W3C standards body permits versus going as fast as Apple is capable.

NewImage2012年1月18日に行われた Apple Education Eventで iBooks Textbooksが発表されました。詳しくはAppleのウェブサイトにありますので、ご覧ください。

とにかく今の子供がうらやましいですね。こんな教科書で勉強できるのなら、楽しくて仕方が無いでしょう。難しいコンセプトもどんどん理解が進むでしょう。何よりもこれだけ勉強が楽しくなるのならば、興味の幅がすごく広い子供がたくさん育ちそうです。受験のための教科だけを勉強するのではなく、興味の赴くままにいろいろな科目を勉強する子が出てくること。これが何よりもうれしいです。

さてiBooks Textbooksに対する批判の多くは、iPad版しか無いこと、そしてiBooks Textbooks用の電子教科書を作成するにはMacを使わなければ無いことに問題視しているようです。

でもイノベーションっていうのは、どうしてもこうなっちゃいます。Apple社も別に囲い込みたいからと言うだけでなく、イノベーションを続けるためにやむなくこういう統合された環境にしているのです。

逆に言うと、iPad版に限定すること、そしてMacで著作するようにしているからこそこれだけイノベーティブなものが作れるのです。

当然ながら今回でiBooks Textbooksは始まったばかりで、今後新しい機能はどんどん追加されます。それに応じてファイル形式も変更されていくでしょう。新しい機能が自由に追加できるのは、このファイル形式をApple社が完全にコントロールしているからこそです。例えばePub形式とかHTML5のような業界標準のファイル形式を採用してしまうと、これらで表現しきれない機能をiBooks Textbooksに追加できなくなってしまいます。つまりイノベーションの自由度が下がってしまうのです。

もし電子教科書はePubの機能で十分であり(つまり静的なコンテンツで十分と考えている)、iBooks Textbooksのイノベーションには価値がないと考えているのなら、業界スタンダードのePubを使えば良いわけで、これならAndroidでも読めます。

もしインタラクティブなコンテンツがとても作りやすくなっているiBooks Textbooksのイノベーションがとても重要で、これからもイノベーションを続けてもらいたいのならば、当面はApple社のシステムを取り込むしかありません。イノベーションが速いペースで進むためには、垂直統合はやむを得ません。

垂直統合はイノベーションの代償です。どっちかを選ぶしかないのです。

デジタル教科書とか電子黒板について思うこと

デジタル教科書とか電子黒板とかが割と話題になっていて、自分もいろいろな理由で興味があります。Facebookでもみんなのデジタル教科書教育研究会というグループに参加させてもらっていて、特に現場の人の意見を聞きたいと思っています。

それで備忘録的な意味で、現時点での自分の考えを少し書きとどめようと思います。議論をしたいのであればFacebookなどでやるつもりですが、今回はそうしません。あくまでも現場を全く知らないけど、いろいろな授業を受けてきた自分の経験に基づいて話したいと思います。

「デジタル教科書」、「電子黒板」という名前が悪い

何が悪いかというと、既存の「教科書」や「黒板」を置き換えようという発想が良くないです。「教科書」にしても「黒板」にしても、長く教育現場で使われており、どうやって活かすかは各先生たちがさまざまな工夫をしながら身につけています。親の世代も「教科書」と「黒板」で育っていて、それをデジタルなもので置き換えることには抵抗を感じるはずです。また「教科書」は価格も安く、「黒板」はすでの学校に備わっているので事実上無料です。

こう考えると、既存の「教科書」を「デジタル教科書」で置き換えるのは、変化への抵抗という精神面でもまた価格面でも全く無理な話です。やるだけ無駄と言えます。もちろん「教科書」の代わりにiPadを持ち歩けばランドセルが軽くなるという話はありますが、その程度の理由で何万円もするiPadを子供に持たせるということはほぼあり得ません。

「電子黒板」はもっと話がおかしくて、価格があまりにも高いので「黒板」に置き換わるはずがないことは誰もが認識しています。それで「電子黒板」にどういう役割が期待されているかというと、マルチメディアを活用した副教材ということなのですが、これだったら昔から学校に置いてあったテレビと同じ役割です。したがって「電子黒板」と呼ばずに、「○×テレビ」という名前をつけるべきです。

「教科書」「黒板」ありきだから「デジタル教科書」、「電子黒板」という名前がつく

「デジタル教科書」、「電子黒板」という名前がどうして使われるか、どうして「○×テレビ」という名前がつかないか、その理由を考えてみます。

一つ考えられるのは、「教科書」「黒板」というものが学校教育に不可欠だという常識(常識だからといって、後述するようにそれが正しいわけではありません)がありますので、「デジタル教科書」、「電子黒板」という名前にすればなんだかとても重要な役割を担うように聞こえるという可能性です。「○×テレビ」という名前にしてしまったら、無くても教育上は支障が無いように認識されてしまいます(仮に実態は「○×テレビ」であったとしても)。同様に「デジタル副教材」よりは「デジタル教科書」としてしまった方が重要そうに聞こえるのでしょう。

でもちょっと立ち止まって考えて欲しいのです。そもそも「教科書」とか「黒板」って必須なのでしょうか。これらを使わない教育の形というのはあり得ないのでしょうか。「教科書」「黒板」にとらわれず、ゼロから教育を考え直した場合、必要なのは何なのでしょうか。そのときにデジタル技術が果たす役割は何でしょうか。そいういう発想が本当は必要だと思います。

ちなみに僕が30年以上前に受けたイギリスの現地の小学校の授業では「教科書」はありませんでした。また少なくとも3年生になるまでは「黒板」を使いませんでした。

1, 2年生の頃は机で島を作って、英語や算数の授業では問題集みたいなものを各自で解いていました。わからなかったら先生が回って教えてくれました。

3年生になって歴史とか地理の授業をやりましたが、「教科書」はなく、先生が独自にいろいろな授業を用意してくれているように見えました(裏でどういうことがあったかわかりませんが)。そして「黒板」を使わず、先生は口頭でいろいろな歴史の話をしてくれます。それを生徒は必死にメモをとり、そして授業の最後は先生が出題した問題を解きます(問題といってもかなり自由記述に近い)。必死にメモをとり、すぐに問題を解くので、授業内容は良く頭に残りました。僕は未だにこの授業の形態が一番好きで、人の話を聞きながら必死にメモをとる(板書を写すのではなく)のが大好きです。

少なくとも僕にとっては「教科書」「黒板」ありきということはありませんし、これらを使わずに効率的に授業をすることはいくらでも可能だし、その方が効果がでるのではないかと考えています。

デジタルって本当はもっとすばらしい

デジタルのすばらしさって、既存のものに置き換わることじゃないんです。今まで存在しなかったことを可能にするのがデジタルの良さなのに、「教科書」「黒板」ありきという既存の枠組みの中で考えてしまったら思考が狭くなってしまいます。

例えばデジタル技術の発達により、写真やビデオを撮ったり編集したりすることが画期的に簡単になりましたし、何よりもフィルム代が全くかかりません。iPod Touchのような2万円程度の機材があれば、それだけで子供はロバート・キャパにもなれますし、スティーヴン・スピルバーグにもなれます。またアニメの作成を支援してくれるソフトを使えば、宮崎駿にもなれてしまうのです。

これを学校の授業に活かさない手はないと思いますが、どうでしょうか。身の回りを観察したり、おもしろく感じたことを映像に納めたり、他人に説明したり、起承転結を構想したりなど、いろいろな力が身につくはずです。

アニメを作るソフトなどを使えば、子供たちに日本史物語や地理物語をいろいろ作らせることができます。これだけやらせれば、学校で習ったことは一生記憶に残るのではないでしょうか。

もう一つ、電子メールを使ったり、ブログを読んだり書いたり、FacebookやTwitterを使っている人なら皆感じていることですが、デジタルによってコミュニケーションの形が大きく変わりました。いろいろな人のいろいろな意見を簡単に知ることができるようになりましたし、自分の意見を他人に伝えることが自由にできるようになりました。このコミュニケーションも授業に生かせるのではないでしょうか。

例えば今までだったら学校の宿題で読書感想文を書かされても、読んでくれるのは先生だけでした。そうではなく、学校内のLANでブログシステムを運用すれば、読書感想文はみんなで読んで、みんなで議論するものになる可能性があります。自分はこう読み取ったけど、友人Aは違うように読んでいたんだ。彼はそういうものの考え方をするのか。そうやって自分の考えのポジションを知ることができるし、他人との意見の違いも尊重できるようになるのではないでしょうか。親しい友人でも、なかなか思考回路を理解することはないのですが、そのレベルでのコミュニケーションを可能にしてくれるのがデジタルの一つのすばらしさだと思います。

その一方でデジタルな問題集というのは当たり前だし、子供たちもやってくれるとは思いますし、効果も高いとは思いますが、あまりにも退屈な発想です。必要だと思いますが、デジタル時代の子供を育てるという夢のような話からすると、あまりのもわくわく感のないことです。

もうちょっと幅広く、夢を広げて考えてみましょう。

朝日新聞「アサヒコム」終了、「有料版」に一本化のニュースを受けて

J-Castニュースに『朝日新聞「アサヒコム」終了、来年初めに「有料版」に一本化有力』という記事が掲載されました。(興味深いことにJ-Cast自身は「1.5時情報」というコンセプトのニュースサイトで、基本的には自社で取材はせず、新聞などをベースにコメントを追加するサイトのようです。)

さて、無料の「アサヒコム」を終了することによって購読者数がどうなるか、今後存続していけるのかどうかという様々な憶測がウェブで流れていますが、僕は僕なりの考えを紹介します。

  1. 新聞が提供する情報は民主主義に不可欠だった: 民主主義が成功するための前提条件として、民衆が世間の情勢を知らなくてはなりません。正しい情報を持たない人が、リーダーを選ぶ際に正しい判断ができるはずもないからです。したがって新聞が存続できるかどうか、あるいは同等の役割を果たすメディアが出てくるかどうかは民主主義のためにはとても重要な問題です。Steve Jobs氏もAll Things DigitalのD8のインタービューでまさにこのことに言及しています。
  2. 取材などのニュース収集は広告収入だけで可能か: 広告収入だけに頼ってニュースを配信する試みは別に新しいことではなく、テレビの民放がずっとやってきたビジネスモデルです。残念ながらそのクオリティーは下がる一方で、近年ではまさに目を覆いたくなるような報道番組ばかりになってしまっています。もちろん新聞の取材力も高いとは言えません。しかしテレビの報道はそれよりも格段にひどい状況です。少なくとも民放テレビという過去の例で見る限り、広告収入に頼った報道に民主主義の未来を託す気にはなれません。
  3. ネットの情報は無料が多いのは、情報に価値が無いからではない。: スマートフォンを使っている人は、毎月6-7千円を支払っています。光ファイバーでインターネットに接続している人は毎月おおよそ5千円を支払っています。テレビ(衛生を含む)を持っている世帯は、毎月NHKに3千円支払っています。こう見ると、我々は情報を得たり、コミュニケーションするためのハードウェアやネットワークに毎月かなり多くのお金を支払っています。ハードにこれだけのお金を払いつつ、コンテンツが無料であることを期待するのはあべこべな話です。インターネットに接続したときに我々が欲しいのは情報であって、情報がなければインターネットに接続する価値はありません。我々はハードが欲しいのではなく、ソフトが欲しいのです。だから情報にも毎月数千円のお金を支払う状態こそがバランスのとれたものであるともいえます。
  4. ネットは課金システムが未熟: Steve Jobs氏の巨大な業績の一つはiTunes Music Storeです。当時Napsterなどの違法音楽ダウンロードサイトが隆盛を極め、音楽レーベルは戦々恐々としていました。そのときSteve Jobs氏は違法音楽ダウンロードサイトが使われるのは、利用者がみんな無料で音楽を手に入れたいからではないことを見抜きました。問題なのは利用者が音楽にお金を払いたくないからではなく、売る仕組みがないからだと考えました。だからiTunes Music Storeを作って、音楽のデジタル版が適正な金額で簡単に入手できる仕組みを築き、爆発的な成功を収めたのです。Steve Jobs氏は新聞でもiTunes Music Storeと同じことをやるべく、iPadでNewsstandを提供しています。まだ成功と言える状態ではありませんが、Steve Jobs氏の着眼は一貫しています。僕もインターネットは課金システムが未熟だと考えています。

以上の理由から、僕は朝日新聞の判断を応援します(朝日デジタルも購読しています)。非常に難しい局面であり、試行錯誤しながら何とか乗り越えてもらいたいと思っています。

ただし本当に必要なのは、報道のイノベーションです。印刷や配達が不必要になり、参入障壁がなくなった分、本来ならば新しい一次報道のメディアが参入してきてもおかしくありません。ただ既存企業が無料だと、low-endからの破壊的イノベーションは困難です。既存の新聞がネット版を有料化することによって、ようやくそのチャンスが巡ってきたかもしれません。

ソーシャルネットにおける破壊的イノベーションをmixi vs Facebook vs Google+で考察する

Facebookがどうして2011年だけで一気にmixiを抜去ったか?
どうしてGoogle+は早くも失速気味か?

これをイノベーションの視点で議論してみたいと思います。


2011年11月度のニールセン・インターネット視聴率(日本)が発表され、いろいろな面白いことがそこから読み取れます。

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  1. Facebookがとても伸びていること。
  2. mixiがここの2011年はずっと緩やかな下降をしていること。
  3. Google+は最初こそ人気が出たけど、2ヶ月目からは下降していること。
  4. mixiは女性比率が高く、かつ若い人に人気。

イノベーションや市場のダイナミックスの視点で見ると面白いのは、どうしてFacebookがmixiに支配されているように見えた日本市場に入り込んで、あっという間にトップの座になったか(Twitterは毛色がかなり違うので、ここでは比較対象にはしません)。それに対してGoogleの大プッシュにも関わらず、Google+がなかなかFacebookに勝てないか、ということです。

既存の巨大なSNS (Mixi)が既に日本市場を支配している(ように見えた)にも関わらず、Facebookは日本市場を席巻することができました。一方でGoogle+は最初こそ話題を集めましたが、今の様子ですとこのまま終わってしまいそうです。この2つの明暗を分けたのはいったいどこなのでしょうか。

Clayton Christensen氏による破壊的イノベーションの理論に則して考えたいと思います。

一言で言うと、FacebookとMixiは一見同じ市場で競争しているように見えますが、実はMixiがカバーできていない市場(カバーしたくてもできない市場)にFacebookが入ってきたのです。Christensen氏の言葉で言えば、Facebookはnon-consumptionのユーザ層を取り込みました(new-market disruption)。

それに対してGoogle+はFacebookと全く同じ市場にほとんど同じような製品で乗り込み、Googleというバックの強さだけで勝てるんじゃないかということで正面攻撃を仕掛けました。Christensen氏によれば、このような戦略は大きな力の差がない限りは成功しません。

以下に解説します。 Continue reading “ソーシャルネットにおける破壊的イノベーションをmixi vs Facebook vs Google+で考察する”

Steve Wozniak on Siri “search engines should be replaced by answer engines”

Siri heroSteve Jobsと共同でアップル社を創設したSteve Wozniak氏が好んでLos Gatos, CaliforniaのApple storeの前に並び、徹夜でiPhone 4Sの発売を待ったそうです。

ただでもらえるのに、いつまでも子供心を忘れないとても素敵な人です。

彼が最も引かれているのは”Siri”。並んでいるときに受けたインタビューで以下のように答えています(3:40頃)。

To Siri I could say what are the prime numbers greater than 87. Google doesn’t understand “greater than”, but Wolfram Alpha does. So I would get the right answer. And that’s what I really want in life. I don’t want all these, you know, get me to the way to the answer, to the books that have the answer, get me to a web page that has the answer. I don’t want that. I say search engines should be replace by answer engines.

私がバイオの買物.comで目指しているのも同じことです。

Googleのおかげで検索エンジンが劇的に良くなったとはいえ、ライフサイエンスの研究用製品を探したり調べたり比較したりする方法としてはGoogleは全く不十分です。

単純な検索機能だけを提供しているいろいろな研究用製品ポータルは同じかもっとレベルが低いです。検索しか無いと言うのは、少なくとも研究用製品に関してほとんど役に立たないと同義です。

Siriのような人工知能は必要ないと思っていますが、人間がキュレーションしたデータセットはSiriと同様に必須です。データセットをがんばって作り、そして自然言語解析は無理だとしても、非常に工夫されたインタフェースで答えを提供していくこと。バイオの買物.comはそういうことを目指しています。

東芝のルンバもどき(スマーボ)はなんであんなに高いんだ?

アップデート
少しGoogleで調べたら、iRobotは特許を積極的につかって競合をかなり牽制しているようです。
東芝がこれだけセンサーを使ったりしているのは、恐らくは特許回避のためでしょう。
iRobot Settles Patent and Copyright Infringement Lawsuit to Protect Roomba Floor Vacuuming Robot

Ah robo東芝が2つのCPU、38個のセンサー、カメラなどを搭載したロボット掃除機(名前は「スマーボ」。要するに「ルンバ」もどき)を10月1日に発売するそうです。実売予想価格は9万円前後。月次販売目標は5,000台だそうです(正確な数字はわかりませんが、それに対してルンバはおそらく2010年で年間10万台を販売)。

この掃除機、何がすごいかというと価格がすごい。これでルンバの半分ぐらい売れるかもという販売予想の大胆さもすごい。

Amazonで”roomba”を検索してみるとわかりますが、ルンバは¥34,780のルンバ530から¥82,800のルンバ780まであります。新しい東芝のロボット掃除機スマーボは、後発でありながら最上位機種よりも高い9万円のモデルだけを用意します。

数年経った後の後発メーカーなのに、うんと高い。常識では考えられないマーケティング戦略です。常識的に考えれば売り上げ目標は大幅未達で終わるでしょう(だから半年ぐらい待てば、在庫処分の大安売りがあるかも)。

何でこうなってしまったのでしょうか。 Continue reading “東芝のルンバもどき(スマーボ)はなんであんなに高いんだ?”

AndroidがEUで意匠権侵害で販売仮差し止めになって思うこと

GoogleのモバイルOS Androidが特許を侵害しているとして非常に多くの訴訟に巻き込まれ、またSamsungがGalaxy TabおよびGalaxy S IIで意匠権を侵害しているとして販売差し止めの訴えをAppleより起こされていることは、このブログで何回も取り上げています。

8月9日にはEUでSamsung Galaxy Tab 10.1がEUで販売仮差し止めになったということが報じられ、8月1日には同様の判断がオーストラリアでもくだされましたヨーロッパではMotorola Xoomも同じく意匠権で販売差し止めの訴えを起こされているようです。

一方でGoogleはこのような特許訴訟がイノベーションを阻害しているとブログで訴えています。ただGoogle自身が強力な特許に守られながら大きくなった会社であることや、特許以外の知的所有権に対するGoogleの姿勢にも甚だ疑問があることなどをあげて、Googleは単に自分に都合の良いことを言っているだけではないかという意見もあります。

携帯電話やソフトウェアに関する特許は確かに複雑なようで、各製品には多数の特許が含まれ、メーカーは互いに複雑なクロスライセンスをしているという現状はあるようです。そもそもソフトウェアには特許を与えるべきではないという議論もあるようです(私自身はその根拠が理解できませんが)。

さて私自身は製薬企業にいるときに、間接的に出はありますが、1990年代の半ばの遺伝子特許の問題を見てきました。この時代はシーケンス技術の発達のおかげでヒトゲノムプロジェクトなどが本格的に開始された時期です。それまでの時代と大きく変わったのは、A) 生命現象があって、それからその原因となっている遺伝子を特定するという研究のやり方に変わって、B) まずはシーケンスを闇雲にやり、遺伝子を片っ端から解読し、配列から有望そうだと推定されたものについて生命現象との関係を探っているというやり方が台頭してきたことです。いわゆる逆遺伝学(reverse genetics)と呼ばれる手法です。

しかしB)のreverse geneticsを行う際に、最後まで遺伝子と生命現象との関係を見つけるのは意外に困難です。1990年代半ばはRNAiもまだ知られていませんでしたので、ほ乳動物の細胞で遺伝子を欠損させるにはノックアウトマウスを作るしかなかった時代です。したがって現実的にせいぜいできることは、細胞に遺伝子を強制発現させることぐらいでした。遺伝子はいくらでも見つかるのに、その機能がわからないというものが山ほど出てきました。

それでも製薬企業にいる以上、見つかった遺伝子の特許が早く取りたいのです。でも特許は「有用性」が言えないといけません。そこで遺伝子配列からバイオインフォマティックスで導かれた推定機能だけで特許を申請してしまう企業も多く現れました。

果たしてそんないい加減な特許(つまり「有用性」がしっかり書かれていない特許)が成立してしまうのか。法律の世界は簡単に白黒がつくものばかりではないので、企業としては非常に不安でした。多分成立しないと思うけど、成立したら大変なことになってしまう。関係者はそんなことを案じていました。

なぜそんなに不安になるかというと、遺伝子配列そのもので特許を取られてしまうと、特許を所有している企業が非常に有利になると考えられていたからです。特許を申請するときは可能な限り多くの権利(クレーム)を書くことが当たり前のことですが、当時の遺伝子特許には i) その遺伝子配列から生産されたタンパク質はもちろんのこと、ii) そのタンパク質に結合する他のタンパク質を免疫沈降などで発見する実験、iii) そのタンパク質と結合する化合物(医薬品候補)をスクリーニングする実験さえもクリームされていました。したがって遺伝子配列の特許を持っていれば、他の製薬企業がそのタンパク質に作用する医薬品を発見したとしても(それがどんな方法で見つけたにせよ)、ほぼ特許侵害で訴えることができる訳です。

実際に遺伝子特許問題がどのように収束したかは、私もほどなくしてその分野から去ってしまいましたので詳しくは知りません。まだいろいろな問題が残っているという印象は受けています。

ただそういう問題を見てきた人間として感じるのは、ソフトウェア特許以外にも特許制度は非常に難しい問題を抱えているということです。もちろん独創的な発見やイノベーションを行った個人や企業は多いに奨励されるべきですし、特許のような強力な独占権を与えることも場合によって必要だとは思います。しかし科学技術の発展が速いだけに、また様々な利害関係が対立するだけに、法律が時代に追いつくのは難しいのです。そういう状況を考えれば、特許制度は決してベストが実現可能ではなく、「無いよりかなりマシ」ぐらいの存在であるような気もします。

遺伝子特許を議論していた印象からすると、Googleがやった行為が問題になるのはきわめて当たり前ですし、もしあれが許されるのであれば製薬企業やベンチャーが基礎研究をする価値はほとんど失われてしまうとさえ思えます。ベンチャーにとっての最大の資産が特許ということも珍しくないでしょうから、特許侵害まがいの行動が許されてしまったら、製薬産業のイノベーションの構造が覆されるでしょう。

私はそういう目でAndroidの訴訟を見ていますので、どうしてもAppleだとかMicrosoft, Oracleの側に立ちます。

Androidが失速した後に何が起こるか

昨年末、2010/12/14に私はブログでAndroidが特許によって沈められるだろうとブログに書きました。そのことがいよいよ現実になろうとしています。

この件については“FOSS Patents”というブログを運営しているFlorian Muellerが一番の権威で、米国の一般紙でも彼のコメントが誰よりも多く引用されています。

FOSS Patentsが現時点で解説していることの要点は以下の通りです;

  1. Android関連の訴訟は49個にのぼり、異常に多くなっています
  2. Androidの開発に当たり、GoogleはOracleの特許を故意に侵害した可能性が高く、その結果として数千億円程度の賠償金を支払うことになる可能性が高いです
  3. AndroidがMicrosoftの特許を侵害しているとして、HTCはすでにMicrosoftに対して電話機一台あたり5 USDを支払っていると報じられています。MicrosoftはSamsungにも同様な使用料を求めています。結果として既にAndroidはフリーとは言えなくないどころか、高くつく可能性もあります
  4. Androidが特許を侵害しているとしてAppleはHTCを訴えています。その結果として、HTC製のAndroidスマートフォンが米国で売れなくなる可能性が高いです。同様の特許侵害はHTCに限らず、Androidスマートフォン一般に当てはまるため、他のメーカーも訴えられる可能性が高くなっています
  5. Lodsysがモバイルソフトを開発しているいくつかの会社を特許侵害で訴えています。Appleはこれらのソフト会社を守ると一応の見解を出していますが、Googleはまったく何の見解も発表していません。Lodsysの訴訟により、中小のソフト会社は大きな危機に立たされています

さて、これらの訴訟がどのように展開するかは正確には予想できません。しかしはっきりしているのは、Androidが知的所有権がらみで非常に大きな弱みがあること、そしてAndroidを採用したメーカーは最低でも特許所有者に相当のライセンス料を支払わなければならないことです(最悪の場合は売れなくなる)。しかも今後ますますリスクが増大することが予想されますので、メーカーとしては一体どれだけライセンス料を払えば良いのか、どれだけ損害賠償を支払わないといけないのかが分かりません。

携帯電話メーカーにとっては非常に厄介な状態です。

この状況の中で、2011/2012年のスマートフォン/タブレット市場がどうなるか、簡単に予想してみます。

  1. Androidの採用をやめるメーカーが続出するでしょう。Windows Phone 7に関してはMicrosoftが知的所有権の問題をカバーしてくれますので、大部分はこっちに流れるでしょう。
  2. Googleが知的所有権の面倒を全く見てくれないということで、アプリを開発しているソフト会社がAndroidから離れて行くでしょう。その代わり、iOSやWindows Phone 7に流れて行くでしょう。
  3. お金を損するばかりなので、Google社内でもAndroidの開発の勢いが低下するでしょう。ただし中断することまでは出来ないでしょう。
  4. 結果としてAndroidは徐々に失速し、代わりにWindows Phone 7が出てくるでしょう。この間Appleがより多くのキャリアと契約することによって、iPhoneがシェアをますます拡大させるでしょう。
  5. タブレットについてはAppleの独走が続くでしょう。Androidタブレットは現時点で売上げが伸びず、対応アプリも増えていません。特許侵害問題があるうちは各メーカーもなかなか積極的になれないでしょう。またMicrosoftはタブレット用OSとしてWindows 8を用意していますが、これが果たしてどのようなものか全く未知数です。しばらくはAppleの独走を止められそうにありません。
  6. 最終的にはPCの時と同じように、MicrosoftとAppleがスマートフォン/タブレット市場を2分するでしょう。ただしPCの時とは逆にAppleの優位は揺るがないでしょう。Microsoftのタブレット用OSが遅れれば遅れるほど、MicrosoftとAppleの差は開きます。Microsoftにとってのタイムリミットは、企業にiPadが多く採用される前にタブレット用OSを完成させることです。
  7. Appleの最大のリスクは独占企業になってしまうことです。独占企業になると行動が厳しく監視され、イノベーションが制限される可能性があります。Microsoftが早く立ち直ってくれないとこうなってしまう危険性があります。
  8. Googleのブランドは大きく傷つきます。特にハードウェアメーカーを巻き込んだプロジェクト、例えばGoogle TVやChrome OSなどはもはやどこもついて来なくなるでしょう。大切なのは、Googleがコアビジネスに集中できるかどうかです。Android問題でAppleと険悪になったことで、コアビジネスのサーチとインターネット広告に悪影響はでます。引き続き技術革新を続けないと、Bingなどに追いつかれる可能性だってあります。