海外のPhDは評価が高いのか?

NewImage.jpg日本ではPhDの一般的な評価が低く、そのために就職にも有利とならず、博士の就職難問題などの原因になっているという話があります。

実際、大企業でも研究職の大半が修士卒以下だというのは先進国では珍しいのに対して、欧米ではPhDを持っていないとアカデミックでも企業でも一人前の研究職とは認められないようです。

しかし先日読んだThe Economistの記事、“The disposable academic: Why doing a PhD is often a waste of time”では、欧米でもPhDの評価が低いと論じています。平均年収の話もあり、説得力があります(例えば修士卒と博士卒では給料の差がほとんどなく、学部によっては逆転するそうです)。以下に抜粋します。

海外でもPhDは奴隷のように働かされている

ドクターコースを終え、企業に就職したドイツ人の同僚もこんなことを言っていました。安い労働力としてこき使われ、長時間労働と低賃金、そして将来への不安は同じようです。

One thing many PhD students have in common is dissatisfaction. Some describe their work as “slave labour”. Seven-day weeks, ten-hour days, low pay and uncertain prospects are widespread. You know you are a graduate student, goes one quip, when your office is better decorated than your home and you have a favourite flavour of instant noodle.

But universities have discovered that PhD students are cheap, highly motivated and disposable labour. With more PhD students they can do more research, and in some countries more teaching, with less money.

PhDコースで教える内容は就職に結びつかない

PhDコースはアカデミア職に就く人のためにデザインされていますが、アカデミア職の空きが足りないようです。また企業が求めるスキルは身に付いていないようです。

PhDが不足しているのは新興国だけのようです。

There is an oversupply of PhDs. Although a doctorate is designed as training for a job in academia, the number of PhD positions is unrelated to the number of job openings. Meanwhile, business leaders complain about shortages of high-level skills, suggesting PhDs are not teaching the right things.

America produced more than 100,000 doctoral degrees between 2005 and 2009. In the same period there were just 16,000 new professorships.

in Canada, where the output of PhD graduates has grown relatively modestly, universities conferred 4,800 doctorate degrees in 2007 but hired just 2,616 new full-time professors.

Only a few fast-developing countries, such as Brazil and China, now seem short of PhDs.

アメリカのPhDコースに新興国の学生が集まるのは低賃金だから

確かにこのような見方もありますね。

In some countries, such as Britain and America, poor pay and job prospects are reflected in the number of foreign-born PhD students. Dr Freeman estimates that in 1966 only 23% of science and engineering PhDs in America were awarded to students born outside the country. By 2006 that proportion had increased to 48%. Foreign students tend to tolerate poorer working conditions, and the supply of cheap, brilliant, foreign labour also keeps wages down.

PhDを取っても給料は高くならない

英国でのデータ;

  • 大卒 vs. 高卒 : 14%高い給料
  • 大卒 vs. 修士卒 : 23%高い給料
  • 大卒 vs. 博士卒 : 26%高い給料

つまり修士卒に比べて3%しか高い給料は得られないという話です。

しかも数学と計算機、社会科学と言語学ではこの差は消滅します。さらに工学や技術、建築と教育では逆転し、修士卒の方が高い給料が得られています。

In some subjects the premium for a PhD vanishes entirely. PhDs in maths and computing, social sciences and languages earn no more than those with master’s degrees. The premium for a PhD is actually smaller than for a master’s degree in engineering and technology, architecture and education. Only in medicine, other sciences, and business and financial studies is it high enough to be worthwhile.

ソーシャルメディアって難しい

ソーシャルメディアと言えば私はTwitterとFacebookとmixiを使っていますが、それぞれに微妙な使い分けをしています。私以外の多くに人も何らかの使い分けをしている思います。

私の場合;

  1. Twitterはネットで知り合った人を始め、不特定多数の人とつながっています。投稿も雑多な内容で、仕事のことを含め、思ったことをその場で書いていました。最近はバイオの買物.comの公式アカウントという位置づけにして、発言内容を仕事関連になるべく絞っています。Twitter上の友人は旧知の間柄でもないので、すごく大切な友人ということはあまりありません。そのため、政治のこともちょっと過激に発言することもありました。逆にそれでつながっている人も多くなっています。
  2. Facebookは顔なじみの人に限定しています。それも学生時代の友人や、プライベートの話が気軽にできる会社の友人(今の会社は一人でやっていますので、以前の会社の友人になりますが)に絞っています。投稿もプライベートばかりで、子育て関連のことばかり書いています。大切な友人ばかりなので、気軽な中にも、学生の頃は話さなかったような政治とかの話はしないようにしています。友人の政治観とかが分からないし、それが理由で友情にひびを入れたくないからです。
  3. Mixiはそもそもほとんど使っていませんが、Facebookと同じようにプライベートの話が出切る友人に絞っています。

ただこれはあくまでも私の使い分けであって、友人が同じだとは限りません。

例えば私はFacebookをプライベートな友人に絞っていますが、その友人の中にはFacebookを今の会社の人間とのつながりに使っている人がいます。

そのとき僕が彼の投稿に対して、学生時代の悪のりした感じでちゃかしたようなコメントをするとマズいのです。なぜならそのコメントを彼の会社の同僚が見てしまうからです。

実際やってしまった後に気付いて、あわてて消してしまったことがあります。

アップデート

よく考えると日本人でFacebookをやっているは、何らかの形で外国人と知り合っていて、その人と連絡を取るためにFacebookを使っていることが多いように思います。留学したのでなければ、必然的にFacebook上の「友人」は会社関係の人間になりやすいですね。
Facebookが日本で普及していけば、そうでもなくなると思いますが。

ノーベル平和賞って人権活動とか民主化活動に与えるべきではないと思う理由

結論から言うと、私はノーベル平和賞を人権活動や民主化活動に与えるべきではないと思っています。あくまでも平和に絞るべきだと思います。

なぜか。

人権や民主化と言ったものは近代の西洋的な価値観であり、西洋であっても歴史が浅く、まだ普遍的にその価値が認識されているとは言えないからです。

また人権や民主化を重視することが人類の平和と繁栄につながるとは言えず、歴史的に見れば比較的民主的な国家こそが無用な戦争を起こしているとさえ言えます。

NewImage.jpg帝国主義国による植民地支配やそのあとに続く第一次大戦、第二次大戦にしても、世界の中でも民主化が早かった欧米の国々が犯したものです。最近で言えばアメリカが犯したイラク戦争もそうですし、イスラエルも民主化された国のはずなのにあんなひどいことをやっています。

その一方で人権や民主化という概念すらない何千年前の古代より、平和の重要性は普遍的に認識されています。

当のAlfred Nobel氏の遺言にしても、平和については書いていますが人権・民主化には言及していません(Wikipediaのノーベル平和賞の項 日本語 英語)。

…shall have done the most or the best work for fraternity between nations, for the abolition or reduction of standing armies and for the holding and promotion of peace congresses.

国家間の友愛関係の促進、常備軍の廃止・縮小、平和のための会議・促進に最も貢献した人物

それもそのはずです。Nobelが生きていた時代(1833年-1896年)の世界はまだ人権の考え方が確立していなかったのです。スウェーデンでは既婚女性が自らの所得を使えるようになったのは1874年、女性に選挙権が与えられたのは1921年です。アメリカの黒人差別と公民権運動は言うに及ばずです。

想像ですが、人権や民主化の推進が世界の平和にプラスになるなんて、Nobel氏はこれっぽっちも思っていなかったのではないでしょうか。

結論

平和は歴史的にも地理的にも普遍性を持った、人類共通の価値観です。平和に貢献した人を表彰している限りはノーベル平和賞は世界全体のものと認識されて良いと思います。

しかし人権や民主化に対してノーベル平和賞を与えるのは、西洋の近代的な価値観の押しつけだと言われても仕方がありません。しかも人権・民主化が平和に貢献するという客観的な証拠も無さそうです。Nobel氏の意思に沿っているとも言えないと思います。

「人権・民主化が平和につながる」と言うのであれば、日本を含めた民主国家が例えば中国に対して先例を示さなければなりません。民主化していることが如何に良いことか、如何に平和に貢献しているか、如何に国民の幸せにつながるのかを示さないといけません。「人権・民主化が平和につながる」というのはまだ新しい考え方で、歴史的に証明されていません。ですから現代の民主国家こそが、自らこれを証明しないといけないのです。

しかし残念ながら、民主国家はあまり成功していると言えません。経済は破綻するし、政治は混乱するし、好戦的な国もあるし。

個人的には「個人の自由と人権」を謳歌していますので、中国人に民主主義の良さをアピールしたいのですが、なかなかエビデンスが揃わないのが苦しいところですね。

アップデート

ノーベル賞の公式サイトを見ると、こんなことが書いてあります。

It is striking that although the committee based its work right from the start in 1901 on a broad range of criteria for what is relevant to peace, the struggle for human rights was for a long time not among those criteria. The first real human rights prize went to the South African chieftain Albert Lutuli in 1960.
….
Why the struggle for human rights was not considered a criterion before 1960 is an interesting question. Nobel himself evidently did not take it into consideration when writing his will in 1895. Nor did the committee when it began its work in 1901. It included humanitarian work, as we have seen, but not efforts aimed at human rights.
….
So why did it find a place on the international political agenda after World War II? Why had the struggle for human rights not been regarded as relevant to peace before then? The main reason is sufficiently clear. It lay in the new threat posed by the twentieth century’s totalitarian regimes, and more particularly in the experience of total war with ethnic cleansing and other horrors, all within the western world.

ノーベル平和賞が人権や民主化活動を含むようになったのは、ヒットラーのせいなんですね。

中国に対して「民主化しろ」と言うからには、良いお手本を示さないとね

劉暁波氏がノーベル平和賞を受賞し、それに対する中国がいろいろと不満を形にして表していて、それをまた先進国が非難しているのは、もう皆さんよくご存知のことかと思います。

「人権を守ることが大切だよ」とか「民主化しないといけないよ」とか「中国にとってもの民主化した方が長期的には良いよ」とか「言論の自由を弾圧してはならないよ」とか、いろいろなことを先進国は言っています。

でもそういう「民主的」な先進国が、金融の暴走で大変な不景気に見舞われています。そして不景気から脱却するほぼ唯一の道としてこぞって中国の市場に着目しています。一見すると「民主的」じゃないほうが不況に強いようにも見えます。

各先進国は景気刺激策のコストがかさんだ結果、揃って財政赤字が膨らみ、大きな危機感の中で政権与党が選挙で苦戦を強いられています。そして大きな方向転換を強いられ、財政引き締め策にそろって舵を切ろうとしています。ヨーロッパにしてもアメリカにしても、そして日本にしても然りです。要するにあまり一貫性の無い不況脱出策を各国が採るはめになっています。

この状況の中、中国から見れば「中国にとってもの民主化した方が長期的には良いよ」とはとても思えませんよね。民主化されている先進国がそろいもそろってだらしないことを続けているので。

10代の子供にはネットをどう活用してもらいたいか:「10代、パソコン離れ…ネットは携帯で 東大教授ら調査」

Asahi.comに「10代、パソコン離れ…ネットは携帯で 東大教授ら調査」という記事が載っていました。

NewImage.jpg左に引用したグラフを見てもらえるとはっきりしていますが、「自宅でのパソコンによるネット利用時間」が2005年には20分弱あったのに、2010年には10分強までに落ち込んでいます。他の年齢層は軒並み利用時間が増えている中で、10代だけが落ち込んでいます。したがって10代の若者特有の何かがあると考えるのが自然です。以下、思うことを書いてみたいと思います。

これは意外な結果ではない

2009年の1月に僕は「高校生の携帯電話の使い方」というブログ記事を書きました。高校一年生だった姪が携帯電話をどのように使っているかを聞いたものです。そのときも「自分専用のパソコンが仮にあったとしても、面倒だから使わない」ということを言っていました。ブログを書いた当時は気付かなかったのですが、iPadなどが登場したいまでは、パソコンの何が面倒だったのかははっきりしていると思います。立ち上がるのは遅いし、設定が面倒だし、アプリのインストールは分かり難いしなど、iPadが解決しようとしているのはそういったパソコンの面倒臭さです。

この調査を実施した橋元教授は

10代のパソコンによるネット利用時間が落ち込んだのは意外で、10代の携帯ネットの利用も飽和状態に近いと見ている。

と語っているそうですが、彼はあまり10代の若者と接する機会がないのかなと想像されます。

面倒くさいというのは10代だけではないはずです

しかしパソコンが面倒くさいというのは10代だけの話ではないはずです。他の世代にとってもパソコンの起動が遅いのは共通の苦痛です。ですからこれだけでは10代の落ち込みは説明できそうにありません。

Asahi.comの記事の中では、10代の時間がテレビゲームなどに振り分けられていることにも注目していますが、これもまた10代特有とは言えません。3-40代もかなりテレビゲームをやっているはずです。

日本のマスコミのレベルが一般に低いので仕方ありませんが、Asahi.comの記事では10代の落ち込みの原因が十分に議論されていないと言わざるを得ません。

携帯サイトの年代別利用状況

一つ考えられる仮説として、携帯サイトが10代の若者にとって魅力的である一方、インターネットのコンテンツに魅力がない可能性があります。

「モバイルでの利用サービス調査」では世代別の調査が行われていますので、これを見てみましょう。

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この中で10代の利用率が突出して高いのは「着うたフル」「ブログ」「電子コミック」「占い」です。「ブログ」の中身が芸能人等のブログなのか、友人同士のブログなのかはこのウェブページだけでは分かりませんが、僕の姪の話だと友人同士のブログを見ることが多いと言っていました。よくある、携帯で簡単に書いたブログなのでしょう。

確かにこれらのものであれば、携帯の小さな画面でも不便は無さそうです。敢えてパソコンを使う必要は感じられません。今日初めて電子コミックをこのサイトで試してみましたが(パソコンの画面上で)、画面が小さいと一コマ一コマに集中させられてしまい、却って良さそうな気もしますね。

逆にパソコンでネットを利用する目的のうち、高校生にとって魅力のありそうなものを見てみます。総務省の資料平成 21 年「通信利用動向調査」の結果の9ページ目のグラフにいろいろな利用目的が記されています。

スクリーンショット(2010-12-13 0.30.29).png

上位項目のうち、パソコンでなければできず、なおかつ中高生にとって面白そうなのは「動画投稿サイトの利用」ぐらいでしょうか。10代がパソコンを利用しなくなっている理由がだんだん分かって来た気がします。

親としては子供にネットをどう活用してもらいたいか

先ほどの総務省のグラフを見ながら、親としては10代の子供にどのようなサイトに行ってもらいたいかを考えてみたいと思います。

パソコンでのネット利用の最上位は「企業・政府等のホームページ(ニュースサイトを含む)」ですし、親としては子供にもこれを見てもらいたいはずです。世の中がどのようになっているのかの情報はそこにあるからです。そして親自身がインターネットをイメージしたときは、このようなサイトをイメージしています。

しかし10代の子供はこれにあまり興味がないのでしょう。だから携帯で十分と考えるのだと思います。

どう考えるか

少なくとも親の世代から見たとき、10代の理想的なネット利用というのは、学習の助けになるような使い方だと思います。学校でやる目の前の勉強はもちろんのこと、社会の仕組みを知る勉強、将来の職業について考えるための勉強など、そういうことにインターネットを利用してもらいたいと思っているはずです。

しかし当然ながら子供が素直に親の意向に従ってくれるはずもなく、自分たちが興味を持っているものがまず最初にあって、それに合わせるようにネットを活用していきます。そして若者の興味はいつの時代もほとんど変わることはなく、相変わらずポップ音楽であったり、友達関係(異性を含む)だったり、漫画だったり、芸能人だったりする訳です。10代の若者が社会の仕組みや将来の職業に非常に関心を持っていた時代は、少なくとも日本が豊かになってからはないはずですし、今後も訪れないと考えるのが自然です。社会のことに無関心でいられるのは先進国の10代の特権なのですから。

10代のパソコン離れは、これを単に反映しているだけではないかと思います。

ただ僕としては残念な思いはあります。若い世代にはもっと有効にネットを活用し、我々の世代では出来なかったようなこと、得られなかったような情報を活用しながら、我々の世代を越えるような人間たちが育ってほしいからです。

そのためにはネット(パソコンの)を活用した授業を学校の中で取り入れるしかないのかなと、この調査結果を受けて、いままで以上に強く思うようになりました。

博士号取得者は○×ができるという議論はやめよう

ぼくのTwitterのタイムラインでは、博士問題を取り上げたり、その解決のために努力をされたりしている人がそれなりにいます。

博士問題、つまり博士の就職難の問題に取り組む姿勢そのものは高く評価しています。しかしその時に「博士号取得者は技術に詳しい」もしくは「博士号取得者は独自に道を切り開く力がある」と言う人がいます。博士号取得者が優秀である、もしくは優れた経験をしているという主張です。

希望的にそう思いたいという気持ちは分かりますが、科学的根拠がないことを科学者が言っちゃいけないと思います。ロジックとしては博士号取得者は優秀だという議論は可能ですが、博士号取得者の方が○×ができるというデータってあるんでしょうか。特に同じ年数を企業で過ごした人と比較して。

入手しやすそうなデータの一つとして、博士課程に入学した人のうち、実際に博士号を取得した人の割合があると思います。ちゃんとした数字は調べていないのですが、例えばインターネット上ではこういうページがあります。まぁまぁ僕の出身学科に近い数字ではあるので、個人的にはこれで大体正しいかなと思っています。ちゃんと調べた結果、もし紹介したページのように理系で博士コースに進学した学生のうちの50%-70%もの人が博士号を取得するというデータになったとすると、例えば「博士号取得者は独自に道を切り開く力がある」ということはもう言えないですよね。

博士号取得の失敗率が低いわけだから、「選抜」は行われていません。かといって、医学部のように医学の体系的な教育がされている訳でもありません。ですから博士号というのは3年間研究をし、平均的な成果が得られ、それを論文にまとめたことに対する学位であると考えるのが妥当ではないでしょうか。それ以上でもそれ以下でもないはずです。

「証明書」があることを除けば、博士号を取得した人と、修士で企業の中で3年間研究をしていた人は基本的に等価です。希望的観測なくして、これ以上のことは言えないはずですし、言ったところで問題は解決に向かわないはずです。

何でも不景気のせいにするのは考えが足りない: 「30代前半の男性、半数が親と同居…不況背景?晩婚化も」

Asahi.comの記事
「30代前半の男性、半数が親と同居…不況背景?晩婚化も」

マスコミだから仕方ないと諦めているけれども、論理展開がおかしいです。

国立社会保障・人口問題研究所が「経済状況の厳しさが、結婚や自立を遅らせている可能性もある」と語ったと報じられていますが、本当にそうだとすると、この研究所もちょっと考えが足りないことになりそうです。

なお調査の原文はここの10ページ、図III-6だと思われます。

スクリーンショット(2010-12-11 2.00.16).png

新聞記事を引用します

親と同居している割合は、結婚を機に30代になると大幅に減少する。ただ、30代前半の男性は調査のたびごとに増加し、1999年は39%、04年は45%だったが、今回は48%と最高を更新。女性も04年の33%から37%に増えた。

つまり1999年から2004年は同居率が6ポイント上昇していて、2004年から2010年は3ポイントしか上昇していません。2002年2月から2007年10月は公式には好景気(いざなみ景気)である一方、2008年のリーマンショックによる景気後退は100年に一度とも言われているものです。したがって言い方によっては、好景気時に同居率が6ポイント上昇して、不景気時に上昇率が半分に低下したとも言えます。

実際に過去の調査結果のデータを確認し(2009年実施2004年実施1999年実施1994年実施)、30歳前半男性に限って整理しました。

2009年 47.9%
2004年 45.4%
1999年 39.0%
1994年 41.2%

1994年から1999年にかけてというのは、バブルが崩壊した直後で、日本経済史上最長の不景気が続いた時期です。でもその間に同居率は2.2ポイント減少しています。

僕なんかの考え方で言えば、この数字を見る限り、景気と同居率の間には相関関係は無さそうだと思うのですが、いかがでしょうか。

まとめ

親との同居率について、晩婚化についても、最近15年のデータを見る限り景気との相関関係は認められません。新聞で報道されているように景気のせいにするのは、はなはだ根拠に乏しい議論だと言えます。

おそらく親との同居率についても、晩婚化についても、景気とは全く異なる要因がむしろ大きく影響していると思われます。

そもそも親と同居するかどうかの判断は、家賃、給与、そして会社の福利厚生に大きく影響されます。

好景気のときは給与も増えますが、家賃も増えます。もし給与の増加分以上に家賃が増えてしまったら、いくら好景気とはいえ、親と同居する子が増えるという議論が成り立ちます。好景気かどうかを見るだけでなく、給与と家賃の相対的な関係を見る必要があります。

また会社の福利厚生として独身寮があり、格安で借りることができるのであれば、景気に関係なく多くに人が入寮するでしょう。最近は各企業が社宅や独身寮を減らしていますので、親との同居率にはこっちの方がむしろ影響している可能性があります。

本当のところはしっかりした調査が必要になりますが、いずれにしても簡単に景気のせいにするというのはあまりにも考えが足りず、あきれてしまいます。

朝日新聞だけなら仕方ないのですが、日経新聞までもこんな報道の仕方をするのでがっかりです。

生物は「効率」を重視したデザインではない

Nature Structural & Molecular Biology誌に“Transcription of functionally related constitutive genes is not coordinated”という研究が投稿されていました。

Constitutiveに発現している遺伝子のmRNA発現レベルは結構適当だし、とても効率を重視したような発現パターンではないよという話です。

The Scientistに解説記事“Surprisingly sloppy yeast genes
The findings suggest the current understanding of transcription networks should be reassessed”
が載っていますの引用して紹介します。

These essential genes — which work together to build important cell complexes like ribosomes and proteasomes — are turned on and off randomly, researchers report in today’s online edition of Nature Structural and Molecular Biology.

細胞のエネルギー効率の観点からすれば、余計なものを作らないことが大切です。無駄なものを作ることは資源の浪費であるのはもちろん、有害な物質の蓄積にもつながるからです。そのために遺伝子の発現レベルはコントロールされるだろうと考えるのが自然です。しかし実際にはコントロールされているどころか、ランダムに変化しているというのです。

“The genes are essentially clueless,” said Singer. “They don’t know what they’re making or the actual destiny of protein. They’re just there, cranking out proteins.”

非常に大切な遺伝子であるにも関わらず、発現レベルのコントロールは全くされていないよ、制御されていないよという話です。

“We have this bias about cells being efficient, but the more we learn about them, the more inefficient we find out they are,” said Singer. “But maybe that’s the way biological systems have to work. If they had too many controls, there’s a lot more opportunity for things to go wrong.”

研究すればするほど細胞は効率重視ではなく、無駄を多く残していることがわかってくるという話です。そして生物が行きていくためには、それは必然なのではないかということです。効率を重視しすぎていたら、うまくいかなくなってしまうことも多いのではないかという意見です。

感想

細胞は効率重視ではないというのは、僕もずっと前から感じていたことで、この論文が示していることは非常に自然に受け入れます。細胞生物学をある程度学んだ方も多くはそう思っているのではないかと思います。

一番分かりやすいのはゲノムです。全ゲノム配列のうち、遺伝子をコードしていると思われるのはわずか数パーセントであり、その他の箇所の大部分はいまだに何をしているかがはっきりしません。miRNAの発見等によって、古典的な遺伝子以外にも機能を持った配列があることはわかりましたが、それを加えたとしても、一見すると何も役に立っていないゲノム領域の方が圧倒的に多いです。

一見役に立っていないゲノム領域も何らかの機能があるはずだ。そう信じて様々に解析している研究者もいます。しかし今回の研究論文のように生物の「いい加減さ」が繰り返し証明されるにつれ、本当に機能があるのか、疑問に思えてきます。

僕はそういうとき、自分のオフィスの机、そしてパソコンのハードディスクの中身を思い出します。日常的に使っている領域や書類はやはり数パーセントです。その他のものの中にはもちろん大切で保管が必要なものもありますが、捨てても永遠に気付きそうにないもの、つまり無駄なものも多くあります。数年に一回オフィスを大掃除したり、ハードディスクの中身を見直したりしているにも関わらずです。

さらに自分の身の回りだけではなく、人間の営みそのものや社会、経済、会社組織についても考えてみます。どこを見ても無駄なものは見つかります。こうしたら効率化できるのではないかというものがあります。しかし現実にはそうなっていません。

効率化が進んでいるかどうかについて、細胞と自分のオフィス、パソコンのハードディスク、そして社会との間には本質的な差は無いと僕は常々考えています。

「そうか、細胞も僕と同じぐらいはずぼらなんだね。」

これが本質だと思います。

子供が学校で意地悪を受けたとき、どう話すか?

まだ3歳10ヶ月の長女の話ですが、子供どうしで遊ぶようになってまだ2年も経たない年頃なので、子供として初めて体験する友達同士のトラブルが発生します。

特に男の子は言葉が汚くなることもあり、長女に対してもちょっと意地悪な言葉だとか行為が出てくるようです。

それはそれで全く仕方のないことなのですが、そういうことを親に話してくれる長女にどういう言葉をかけてあげるか。大げさに言えば、その言葉が何かによって、その人の価値観のかなりの部分が見えてくるのではないかと思ったりします。

僕が長女に言っているのは「意地悪をする子はちょっとおバカさんだから仕方がないの。あなたはひらがなもカタカナも読めて、英語も勉強しているでしょう。でもあの子は出来ないよね。でもおバカさんだって言ったら、あなたもおバカさんになっちゃうので、絶対に言わないようにね。おバカさんが可哀想だからね。秘密だよ。」

僕はハンムラビ法典的な「目には目を」という考え方は、現代には合わない原始法律として理解しています。そうではなく、マハトマ・ガンディーの言う「”目には目を”は全世界を盲目にしているのだ」こそが僕の価値観です。少なくとも昔の日本の親の多くは「いじめられたらやり返せ」と子供に言っていたそうですが、僕はその考え方は間違っていると思ってます。

僕の考え方では「意地悪」だとか「いじめ」というのは加害者の未熟さに由来していて、「いじめられたらやり返せ」というのは自分の子供に「未熟者と同じレベルになれ」と言っているのと同じです。ですからそういうことは絶対に言いません。

同時に「意地悪」や「いじめ」に耐えたり許してあげたりするためには、自分の方が精神的にも能力的も優れているという自信が大切だということを理解しています。これは自分自身の経験もあります。自分に自信がある人間は、多少の辱めを受けたとしても聞き流すことができます。その一方ちょっとの侮辱ですぐに逆上する人間は、自分自身に自信がないのです。少なくとも僕はそう考えています。

ですから長女が「意地悪」をしてきた子を許すためは、長女が自分自身に自信を持たなければなりません。そのために自分の能力を再確認させて、そして逆に「意地悪」な子を可哀想に思えるようになる必要があります。

僕は自分のこのような価値観に基づいて、長女に先の言葉をかけました。

でもこういうときに対応はやはり難しいと感じます。それぞれの親によって、全く違う言葉をかけるでしょう。

このブログを読んでくださっている方も、自分だったらどういう言葉をかけるか、そしてそれが自分のどのような価値観に基づいているのかを考えてみたらいかがでしょうか。きっと自分の価値観がよりよく理解できるようになるのではないかと思います。